2011年8月15日月曜日

同和(人権)教育の意義と学校における同和(人権)教育の実践のあり方2009

同和(人権)教育の意義と学校における同和(人権)教育の実践のあり方2009

<緒論>
特別支援教育と同和教育は双方とも、「教育の原点」といわれている。それは、同和教育は時代とともに普遍化され、男女平等、特別支援教育、民族差別など、あらゆる人権問題の解決につなげられてきたからである。地域の住民と共につくり、一人一人にあった手作りの、愛のある教育。社会的に弱い立場の、マイノリティの子ども達の教育や就職の機会を拡大することは、憲法の教育権を保障することであり、ゆくゆくは経済格差を解消することを目指している。
<同和教育史の総括>
同和教育は、一人ひとりの子どもを大切にし、確かな学力の定着、生きる力の獲得を目指し、「平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値を尊び、勤労と責任を重んじ、自主的精神に満ちた心身と共に健康な」児童や生徒を育てる取り組みである。
1960年代、学校教育での差別として、教師の赴任拒否、教師が児童を差別、そして長期欠席や不就学などの問題がとりあげられてきた。学校での補習は同和教育施策へと発展し、やがて、学力・進路保障への取り組みへと転換していった。低学力が低賃金へとつながり、厳しい生活が子どもの低学力を招く「差別と全般的不利益の悪循環」は、黒人差別やインドのカースト制度にも共通する。これらを改善するため、幼少時に新聞等の活字に触れ、朝ごはんをとる規則正しい生活を送るよう取り組み、教科書の無償制度が始まった。
<京都市内の学習形態の歴史>
京都市内では『抽出促進』『分別学習』『学習センター』という形態で指導が行われてきた。
同和地区を含む中学校では、同和加配教員をいかして、『抽出促進(指導)』が行われてきた。国語、数学、英語を中心に、2~3人が別室でマンツーマンに近い形で指導を受ける。しかし、教師の手厚い指導は、子どもの自立を阻むこともあった。一方的な知識詰め込み等の課題を克服するために、学級を単純に半分にした、少人数制の『分割授業』がおこなわれた。先生の目が届きやすく、発言の機会が増えた。だが、抽出指導のようなきめ細やかな指導はできないという課題が残った。
このような経緯より、部落の子どもにこだわらず、全ての子どもに視点を当てていった、『個人選択制習熟度別指導』へと発展することとなった。
京都市独自の『学習センター』のほうは、地域の施設に教員が出かけて補習を行う形式である。当初は、高校進学率を上げるための支援の補習が試みられた。やがて、自宅学習を支える家庭訪問形式となり、自立指導へと形態を変えていった。そして、空き部屋となったセンターでは、同和問題を学習するセンター学活が行われるようになった。
こうして、1970年代から20年間取り組んできた格差是正と自立促進ではあるが、同和地区の空洞化と、貧困化で再び状況が悪化しつつある。生活環境が改善されるにつれ、在日外国人の締め出しと生活向上による流出により、地区内の高齢化が進み、そこに、流出したものの何らかの困難を抱えて戻ってくるリターン流入現象が生じた。地区外の高学歴化も地域格差に拍車をかけた。地域格差を改善するためには、これまでのような同和地区だけの問題としてではなく、地域問題として広くとらえた、新しい街造りが必要であると考えられる。
<同和教育の意義>
本人の努力や責任とは関係無しに、不当に差別され、社会的な不利益を受ける部落差別。人と人とがともに生きていくために相手を尊重しながら自己主張する態度や能力を身につけ、プラス思考で自分らしく生きるために、同和教育は行われてきた。学力や対人能力を育てることが美しいセルフエステームを形成し維持することにつながる。
同和教育の必要性に対して、賛否両論があがっている。「解決済みである」「本校は同和地区を含まないので、同和教育を行わず人権教育を行っている」と同和教育を特定の人の特別な教育へと矮小化する学校もある。1995年総務庁調査において、生活、就労、教育、人々の意識などの面において、部落差別が今日もなお厳然と存在していることが明らかとなった。部落の保護者は、差別の伝え方に悩んでいる。子どもが地区にいる今は、差別の実感がわかない。地区から出たときに差別に負けないよう、教えておきたいがきっかけがつかめない。学校教育での同和教育は必要であるという。いじめやセクシャルハラスメントと同じく、「泣き寝入り」させないで声を聞いて欲しい。1993年の総務庁の全国調査では、40歳以上では知っている人の3割が家族から不確かな情報を得ている。同和問題を知る上で、義務教育で授かる知識が重要と感じられる。
<地域問題としての同和問題>
外国人差別だけではなく、アイヌ民族差別問題、沖縄や島さべつなど、様々な差別を同時に解決するべく、同和教育を地域の人権意識の改善の柱とすることが大切である。ユダヤ人差別にあったように、初めは陰口や落書き、回避行為であっても、その芽を見逃していると身体的攻撃へと発展していく。
京都の千本地区では、学力保障としてさきほどふれた『個人選択制習熟度別分割授業』を行っている。子ども達は自分でクラスを選ぶことで、授業が理解しやすくなり、毎時間「やればできる」と言う達成感を味わっている。また、前述の学習センターでは、「まちづくり」を学んでいる。例えば、空き地をみんなの広場として再生し、どのように飾っていくかみんなで意見を出し合っている。その結果、空き地に大きな壁画が描かれたり、たくさんの花々が植えられて、地域の人の憩いの場所へと変貌している。
総合学習では、いろいろな人から生き方を学ぼうと、エイズについて学び、差別をなくす啓蒙パンフレットを作成したり、お年寄りの配食ボランティアに参加し、同和地区のお年寄りのお話を聞いたり、パラリンピックのビデオを鑑賞して障害のある人について学び、今後の地域のあり方を模索しつつ自分の生き方を見つけ、自分の将来を考える。
<考察>
以前住んでいたW県では、同和地区と他の地区を分け隔てせずに街づくりを進め、生活環境や教育を改善していき、部落出身者を積極的に公務員に採用した。全国から視察に来るような「ドーン計画」成功の裏で、同和教育の不足から、他地域からの移住者による「なぜか役場の職員の質が低い」という「差別発言」をひきおこしている(市町村民の人権意識の高い役場の職員は、人権感覚に揉まれており、知的会話ができる市民の多い職員は丁寧な対応である。市町村民が役場職員のコミュニケーションの質を高めている点を皆、忘れている。高級料理店、生きのいい鮓や刺身の店を鍛えるのは、味の肥えた客の厳しい舌である)。ドーン計画の歴史を学ぶことが、こういった暴言を防ぐのではないか。つまり、「寝た子を起こすな」では真の平等、共生社会にはなりえないのである。学校教育の、地域への果たす役割は、これからますます大きくなっていくことと思われる。

(2009年仏教大学教育学部講義レポートより転載)

特別支援の生活中心・子ども中心の授業づくり、学習指導案作りの特徴2009

特別支援の生活中心・子ども中心の授業づくり、学習指導案作りの特徴 2009
<序論>
戦後の知的障害教育は、初めは各教科の枠内で学年段階を下げる反復指導が行われていたこともあったが、米国の経験主義教育の影響を受け、昭和20年代から実生活重視の「生活主義」教育へと方向転換した。これが総合学習、自立活動の原点であるが、「養護・訓練」が受動的なニュアンスを含むのに対し、生きる力をはぐくむ「自立活動」では、子ども自身が主体的に行動し、一人一人の障害や発達に応じたカリキュラムで行われる。
特別支援教育は、あるべき教師像も教育目標も一般と同じである。しかし、早期支援と障害者の自立支援の観点から、教育、福祉、医療、労働等の分野の専門家が一体となり、乳幼児期から学校卒業まで一貫した「個別の教育支援計画」を策定することが進められている。
<具体的な共通点と相違点>
一般校と特別支援校との比較を行う。一般校にも障害を持つ児童生徒が通級、特殊学級におり、今日では障害の程度だけではどちらの学校を選択すべきかといった区分はない。特別支援学校は通常の40人学級より少ない。8人以下の教室で、一人一人工夫された教材教具を使用するなど、きめ細やかな指導が期待されるが、教育課程はほとんど同じで、ボランティアや社会奉仕のかわりに自立活動や社会参加が加わっている。授業時数は共に年間35週で、小学校(部)45分、中学校(部)50分授業も等しい。視覚障害児・聴覚障害児で、知的障害を伴わない場合は、教科の目標、内容は一般に順ずるとされている。
ただし、学習形態に関しては、一般校と異なる点が多い。重複障害者に関しては、各教科や総合学習を自立活動主体に振り替えることができ、知的障害者に関しては、教科・道徳・総合学習、自立活動の枠をとりはらって、合わせて教える「合科」が認められている。一般校が学年別に目標や内容が詳しく細かく定められ、教科書があるのに対し、特別支援学校では目標や内容を障害や発達段階に合わせるなど、ケースバイケースである。視覚障害児や聴覚障害児では、視覚を補う器具や少ない聴力を利用する機器の取り扱いを学ぶ必要があり、知的障害児では、作業学習(木工、紙工、陶芸、食品など)があり、習得のスピードも一般校よりゆっくりである。特別支援学校の教員は、一般校の免許を持ち、「教職に対する強い情熱」「高い専門性」「統合的な人間力」を持つ理想の教師像に加え、教育の原点であるきめ細かい観察と配慮ができ、独自性、共通性を使い分ける必要がある。
<考察>
障害児に向き合うためには、手探りで根気よく行うのではなく、効率的、効果的に指導する専門性が必要である。例えば、心身のケアの仕方、病気に対する医学的知識、自立活動の進め方などである。障害児は老化で機能が衰えていくお年寄りとは異なる。障害のために、発達すべき社会性や知識の吸収が妨げられているに過ぎない。若い彼らのために、「集団行動」「セルフコントロール」「他者の視点に立つこと」「コミュニケーション能力」「生活力」のスキルが高められるよう、教育の原点に返って指導しなくてはならない。
どちらかといえば、帰国子女を日本社会になじませるように、長所を伸ばし、短所を補い、子どもの立場に立った学習指導案を作る必要がある。一般校よりも一層、しっかり練られた指導案を作り、子どもの意欲を引き出せるよう、その子に応じた最適のレベルの課題を設定し、達成する喜びを味合わせていくような授業が望まれる。


(2009年仏教大学教育学部講義レポートより転載)

2011年6月4日土曜日

2008年学習によって人間は何を得るか(2011年加筆)

学習によって人間は何を得るか。

教育の役割とは、子どもをあるべき姿に育て、文化を継承させることにある。子どもは遺伝的に親から受け継いだ能力の他、個性がある。
学習のものにも遺伝的に個体差があり、さらに学習の仕方によって能力に個人差が生まれる。こうして、親から受け継ぐ以上の何かが得られるのが学習である。
また、遺伝学では、「カエルの子はカエル」とは限らず、親子でも能力に違いがあらわれることが確かめられており、例えば雑種強勢のように、多様な遺伝子の組み合わさったFの方が両親の形質よりも優れている現象が多々見られる。

子ども達には、結果を予想する、つまり想像する力が必要であり、失敗を未然に防ぐ力が必要である。物事を解決しようとする力、つまり、前向きに取り組む力が必要である。それには、数多くの失敗より学ぶ経験と、未経験のことであっても、過去の事例より学び取る力が必要である。
教育においてこうした力を身につけさせる。広く浅く教養を身につけ、得意なものや興味深いものを深く学び、子ども達をあるべき姿に近づけていくことが、教育の役割である。
必要な力を鞭で叩き込むのではなく、「成長への意欲を持たせるべきだ」と説いたのは、日産社長のカルロス・ゴーンである。「自分の能力を発揮したいと、子どもが自発的に思わなけばならない」という子どもが主体の教育が、現在の日本の教育の理想となっている。

学習の内容と方法には、古代、中世、近世、現代では大きく異なっている面と、共通する面がある。かつて、詩や歌が教養であると評価された時代では、耳で聞いて書いて読んで身体の五感で覚えてきた。現代でも、教師の後に続いて復唱する、ノートをきちんととる、DVDや実験実習で体験するなど、五感を意識した学習が望ましい。
音楽やスポーツのコーチング、習得のマニュアルも、現代の教育に参考になろう。グレードを作って小さな目標を達成させる、身体の動きと理論とを並行して覚える、忘れにくく実践に生かしやすい学習方法である。
個人で調べる、塾やサークルの小グループで学ぶ、一斉授業で学ぶなど、学ぶ方法により向いている学習内容がある。自発性を伸ばすには、少人数や個人の方が望ましく、得意なものを伸ばすことに優れている。大教室の一斉授業では、他の生徒と教師との係わり合いに触れることで、学習への意欲が増し、多様な考え方を学習することに優れている。広く浅く教養を身につけるならば、一斉授業は向いているであろうが、子どもの吸収の仕方が均一とは限らない。教師や教科書、時代の流行に左右され、意外に偏ることも考慮しなければならない。教師は個性ある授業を行いながら、中立の立場を守り、生徒は教師や教科書を鵜呑みにするのでなく、自分の意識や意見と照らし合わせ、考えながら学ばねばならない。よき生徒がよき教師を育て、よき教師がよき生徒を育てる。

人によって考えが違うことを尊重し、互いに影響を及ぼしあって暮すため、人付き合いのために教養というものが必要である。歴史は過去の経験を授け、地域や職業観の違いを乗り越えて、共に働き生活するために、教養が必要である。親と同じ職業を継ぎ、同世代、同じ集落で一生を終える昔と異なるのは、出身や宗教、哲学の異なる人が集まって大きな会社や地域社会を形成するようになったことである。
人間は、学んでこそ人間であり、学習を止めれば人間としての成長も止まる。めりはりのある楽しい人生を送るためには、いくつになっても学ぶと言う行為は必要である。

2008年子どものあり方(2011年加筆)

子どものあり方。

子どもの「遊び」は学びの場である。そして、遊びを通して身体づくりをすべきである。
子どもの遊びと学習、叱り方、そして身体作りについて、発達にからめて考えてみる。

遊びとは、外で自然の中で自由な発想の元、遊ぶこと。生きた動植物に触れ、感覚を養い、想像力を培うことである。年齢の異なるグループの中で遊び、弱者をいたわり、年長者との付き合い方を学ぶ。

胎児は、早くから聴覚を発達させ、母親の心臓音をはじめ、家族の会話など多くの音を聴いて育っている。
乳児は、母乳を吸引することで舌や唇の使い方を覚え、肋骨や横隔膜を鍛え、肺活量を増やし、口や喉の筋肉を鍛え、また、大人の発音を真似ることで、舌や唇の筋肉のコントロールを学ぶ。会話等のコミュニケーションの基本は筋肉、身体作りから始まる。
1~2歳児の頃から、手足の動かし方、空間認識を、他動的に、能動的に身体で学習する。ベッドで寝かされた子どもの上に、動くおもちゃがあったとすれば、それは受動的な刺激であるのに対し、背負われて動く背中より見た風景は、他人に動かされて受ける、他動的な刺激である。そして、はいはいなど、自ら動いて、自らつかんだ物が転がったとすれば、これは能動的な刺激である。子どもにとってより効果的な刺激とは、静止画像よりもテレビのような動画や廻り灯篭のようなもの、DVDや電車の車窓、風に動く風車のような受動的なものよりも、三輪車や手にとって鳴るがらがらの方が、より、自分の動きと外界とを関連付ける効果的な刺激となる。大人がおもちゃを動かすのを見て、自分も手にとって真似ると言う行為が、子どもに大人の行動を記憶して自分に置き換えるという重要な学習の機会を与え、自分と他人の区別の形勢を図る。人見知りにより、親しい好意的人間と親しくない人間、もしかすれば自分に害を与える人間との区別が始まる。
また、素直に言うとおりに動いていた乳児が、いやという言葉を覚えて全否定を始める。自分の脳内の命令と、他人からの働きかけの区別が不十分であった乳児が、自分と他人の命令を区別し、取捨選択を始める。おなかが一杯であるのに食えと言われていやという、これは、食欲中枢、満腹中枢が作用する本能的なものであるが、一度いやな気分を味わった食べ物、シチュエーションを思い出して、食べろと言われたときに考えて「いや」と言う行為は、子どもが自分と他人の区別を行う上で、重要な成長過程である。
同様のことは、幼児期や思春期にも生じる。この場合は、脳の機能の再構築時に生じている。それまでの既存の価値観を否定し、あたらしく子ども社会に適応するとき、あたらしく大人社会に適応するとき、そして、成長ホルモンや性ホルモンにより、抽象思考が発達し、家庭における自分、社会における自分を再認識するときに、脳のシナプスが再構築される。これまで、正しいかどうか、検査されることなく素通りされてきた家族のルール、保護者や友人の会話が、再度自分の価値基準に合うかふるいに掛け直され、新しい善悪の基準の下に分類されていく。こうした、必要な発達過程を経るために、年齢相応の集団で年齢相応の「遊び」を体験することは、重要である。

どんな早熟な子どもであっても、全身のあらゆる機能の発達がそろった5歳以降の入学が望ましい。5歳までに、幼・保連携の場で、1対1のコミュニケーションの基本、相手を見て話し、相手の話をきちんと聞けるようになる。
また、1日に数時間はきちんと座って、話を聞いたり、作業をしたり、集中する訓練も必要である。かつてはこれを、宗教が手助けをしていた。どんな家庭の家柄の子どもでも、神社や教会、寺などの行事にて、大人に混じって静かに説法を聞く習慣と言うのが日常的にあった。無宗教の家庭の多い現代では、これを幼稚園・保育園にて、意識的に行わなければならない。それは、DVD鑑賞のような受動的なものではなく、生身の人間によるものであり、その発言によって、立ち上がったり、礼をしたり等、働きかけがあるものでなければならない。このようにして、1対1ばかりでなく、グループや集団のコミュニケーションの基本を、5歳までに学習すべきである。

小学校では、遊ぶときは遊ぶ、学ぶときは学ぶ、日常と非日常の行事など、めりはりのある生活の中、広く浅く、勉強や生活の基礎を固める。
まず、母国語の読み書き、そして算数を身体で覚えるまで繰り返すことである。物の数や量を、幼児期の体験とリンクさせながら身体で繰り返し覚える。九九や分数などは、じっくりやるべきである。


親戚や近所の子どもも、愛情を持ってしかるべきである。年上の子どもが、年下の子どもに、大人が子どもに、きちんとマナーを教えるべきである。マナーの悪い大人がいれば、子どもの前を避けて、より年長の大人が、悪い大人を叱るべきである。
今、自分にとって快か不快か、有利か不利かで叱ったりしからなかったりする大人が多すぎる。声の大きい、力の強いものが、不快と思う相手に対し、生活干渉を行う一方で、自分よりも強い相手には何も言わない。年配者がマナーの悪い若者に虐げられたり、マナーの悪さを叱った近所の大人を、若い親が干渉するなと文句を言うような風潮が、子どもの成長を妨げている。

子ども達は未来をになう、大切な共有財産である。地域社会で育てねばならない。子どもは親のものばかりでなく、教師のものばかりでなく、地域の、国家の宝である。

身体作りについても、学習と同様、様々なスポーツを体験しておく方がよい。歩いたり走ったり、踊ったりボールを投げたり、蹴る、跳ぶ、泳ぐ、とっくみあう、棒を振り回す、あらゆる運動が偏らないように、全身を万遍なく使う運動を、幼・保、小学校で心がけるべきである。
体力は大切である。幼少より、体力はつけておくべきである。中高生になったとき、社会人になったとき、学習に、試験に、仕事に余裕が生まれる。椅子に座り続けるには体力、一日立ち続けるには体力が必要である。また、疲れたときに姿勢をずらしたり、身体の疲れをこまめにストレッチで癒すなどのこつや習慣は、小さいときから大人より学び、身につけていないと急には行えない。肩がこらず、足のむくまない、正しい姿勢や正しい立ち居ぶるまい、疲れにくいペンの持ち方、パソコン画面の覗き方、これもマナーとからめて覚えるべきである。そして、維持できる体力づくりが必要である。
正しい姿勢や立ち居ぶる舞いは、幼少の頃より「形」として学習するのが望ましいが、一方で、普段の走り方や歩き方などは、体格や体力に合わせ、自分でより良いフォームを工夫する習慣も大切である。中高生になって、スポーツで伸び悩んだときに、フォームは修正するべきであって、最初から頭ごなしに教え込むものではない。そうでなければ、年齢に応じた立ち居ぶるまい、体力の増加、減少に応じた立ち居ぶる舞を自力で修正する力がなくなる。生涯学習、生涯スポーツを念頭に置き、本人が主体となって自己の身体を管理できるような教育が望ましい。

子どもと親や教師、大人との係わり方について、考えてみる。

自分で出来ることを子ども自身にどんどんやらせてみる。自立した大人にいきなり成ることはできないからである。
まず、身の回りの整理・清掃の習慣。身の回りをコントロールする習慣が、必要である。
樹上生活のホ乳類、サルから進化した人間は、巣穴を持つホ乳類と異なり、トイレの習慣、整理・清掃の習慣は学習によって得なければならない。
ノートをとったり、実験をするために集中できる環境を、自らの手でつくりだす。例えば、スナック菓子で汚れたペンとノートを理科室に持ち込んで、酸や塩基で汚れた実験台の上に並べ、集中のためと称してガムをかみながらイヤホン片手にレポートを書いていて、正確な実験データが得られるだろうか。
音楽やガムは、上手に使えば気分転換や集中力の増加に効果があるが、時と場合による。自主性を尊重することは大切だが、正しい環境で学習するためには、まかせっぱなしではなく、大人が促してやらねばならない。
金があり、大きな広い部屋を1人使う子どものほうが、兄弟が多くにぎやかな部屋で宿題をする子どもよりも有利なことは確かである。しかし、大人が促してやれば、どちらの環境でも勉強は出来、ほうっておけば、どちらの環境でも勉強は出来ない。
「自主」と「管理」のバランスは本当に難しい。

自分でいろいろ試しているうちに、行動の原因と結果を意識し、自分の起こした行動に対し、責任を自覚しやすくする。大人が子どもに対し、「子どもなりの責任感」を与えるために、「責任」と言うものを与えて体験させ、自覚させるべきである。

最近の子どもの傾向は、大人も同様であるが、楽に要領よく生きることが正しく、内面よりも容姿を磨きがちである。そればかりでは成長できない。
いろいろな考えの大人にもまれ、物事をいろいろな角度から見て、自分の考えを持ち、判断できるように導いてやる必要がある。

2008年これからの日本にどんな大人が求められているか(2011年)

これからの日本にどんな大人が求められているか。

「子どもとは何か」、男と女が結婚して出来る小さな人間のことを、「親」という概念に対して「子ども」と呼んできたが、社会において子どもという人間に対する明確な定義は実はない。子どもとは、時代によっていろいろ考えられており、子どもでない人間を現代は大人と呼ぶ。
ちなみに、「大人とは何か」も、時代によって色々考えられているが、東西共通しているのは、中央集権の大規模国家では、生殖能力のある男性が「おとな」であった時代が長かった。元服する、青年グループに入る、集落で一人前と認められた男性に対する呼び方であった。その頃期待されている大人とは、文字通り、女性や子ども、老人よりも体格や精神面で大きいことが求められ、一人につき1人分と定められた大きな責任を負う存在であった。また、女性や子ども、老人にまで1人分の税や労働を課した国家は滅びていったはずである。というのは、かつて、女性は初潮を迎えると死ぬまで出産授乳を続け身体を酷使し、老人とは無理のきかなくなった30代、40代以上であった。何の社会保障もなければ、頭数で税や労働を課した国家は、若い世代が育たず、知識のある老人が弱って死に、寿命の短い国家となったはずである。

現代では、子ども、女性、老人の人権は守られている。そして、寿命は平均80歳前後となり、女性で妊娠授乳中にある期間が人生においてわずかとなり、子どもには、9年間、ゆくゆくは12年間の義務教育が課せられようとしている。求められる大人像は、戦前、戦後、21世紀と時代と共に変わってきている。かつては、20代女性に求められる大人像と、80男性に求められる大人像とでは、大きな格差があった。今では、80歳男性でも若い女性と恋愛し、結婚し、20代女性でも、独身であったり、個人の自由が大人と言う概念を豊かにしている。それでも、老若男女共通して求められる大人というものについて、考えてみる。

法律における大人とは何か、精神的に大人とは、経済的に大人とは何か。

義務教育を終えると、働かねばならない。中卒で働く青年は、経済的に大人である。16歳で結婚した女性は、社会的、精神的に大人であると扱われ、18歳になれば、若者は全て自動車の免許を法律で許される。20歳になると、酒もタバコも自制できる精神的な大人として、法律で許可される。
こうして、大人には自由が多い。身体や精神が成長して成熟しているため、自分で物事を決定できる。知識や社会常識が増加し、子どもに比べて判断する力が大きい。経済的に自立していれば、財産(二十九条)を管理し、金銭を使う自由があるが、働き(二十七条)、金銭を計画的に使いながら税を納め(三十条)る責任を負う。
大人になり、年齢を重ねるほど年相応の社会的振る舞いを欲求され、重い責任を負わねばならない。そのために大人は、失敗を恐れ、伝統を重んじ、子どもから見れば型にはまった魅力のない人間となりがちである。
逆に、無責任で自己中心的な大人が増加する傾向にあるのも事実である。自分や自分の家族さえ幸せであればよいと、ゴミをところかまわず捨てる、自転車や自動車を道路に放置して通行を妨害する。税金や年金など、お金は払うだけ無駄、損、社会保障は受けられるだけ受けるという損か得かで判断する大人。見つからなければ何をしても心が痛まない。自分の価値を高めるために、他人をさげずみ、蹴落とす。責任や伝統にこだわっていると自分のプライドが保てない、そんな大人が、学歴や貧富に係わらず増加している。
今、子どもと共に、時代の変化についていける柔軟な大人、且つ、子どもの手本となるような、責任ある大人が求められている。

地域や職場で求められる大人とは何か。
地方の農村では、家族ぐるみの深い付き合いが大人には求められている。助け合い、他人に借りを作らない関係、平等な関係を築くのが理想とされている。一方で、都市部の会社員や自営業では、個人で完結するうわっつらの付き合い。家族間であっても本音を隠し、まして他人には係わらない。自分の長所も短所も目立たせず、要領よく楽に生きる。あるいは、夫婦や親子がよりかかりあい、互いに精神的、経済的に自立せずに生きていく。
今、他人を尊重し、束縛せず、互いに助け合い、且つ精神的に経済的に自立して生きていく大人が、求められている、

大人は、子どもの手本である。本人に自覚はなくとも、子どもは周りの大人の立ち居ぶる舞を見て、話し方、人との接し方、社会常識を学ぶ。
大人は、子どもの前で本音を話しすぎである。人間とは、社会とは、建前でふるまい、モラルに反する子どもを、自信を持ってきちんと建前で叱るべきである。

21世紀の日本にふさわしい、アジアの風習にあった、新しい日本の「大人」像が形成され、定着するには、まだ時間がかかりそうである。若いほど価値がある、若いほど稼いでよい暮らしが出来る傾向が、大人が「大人としてのプライド」を保てない原因の一つである。しかし、学歴や財産、地位に関係なく大人が「大人としてのプライド」を保ち続けられる社会は、心の持ちようで可能である。
弱者や他人への「思いやり」、家族への、「隣人愛」、歯の浮くような、古びた道徳観が見直されてもそろそろよいのではないか。精神的満足は、金や地位では満たされない。人が人として尊重されてこそ、満たされ、他人への心の余裕が生まれる。“人権意識の進んだ長寿国家”日本にて、“老若男女共通して求められる大人のありかた”について、学校教育はなにができるだろうか。

2008年教職員のあり方(2011年加筆)

教職員のあり方。

一般社会に比べ、教員は真面目な性格の人物が多いように見受けられる。生徒を叱ったり、正確な評価をつけるために、ミスを許さず、自分にも他人にも厳しくなりがちなのが、教員の性格の特徴である。
教員の真面目さは、職務上必要不可欠である。が、時には生徒にマイナスになることもある。

何年生ではこれを学ぶべきだ、この教科で扱うのはここまでだと、教科書に忠実でありすぎる、また、はみ出しを許さない圧力を受けることもある。標準服がもともと決められた制服ではないように、教科書はもともと標準を定めたものであり、本来は教員が自ら研究し、まとめた教材で授業すべきであるが、少しでも多忙な教員の負担を軽くするために、善意で定められた指導参考書である。
教科書に忠実でありすぎると、基礎学力のない子どもや障害を持った子どもを指導するのが、負担が大きく感じられる。その子どもなりの成長を助けることが、生徒の成績、教員の評価につながるのであれば、教員の自由裁量は広がり、負担は軽くなる。
真面目な教員はまた、社会はこうあるべきだという固定観念にもとらわれがちである。しかも、自分のような安定した正社員があたりまえ、両親がそろって暮らす子ども、兄弟や祖父母など、大家族の子どもはより幸せに違いないという思い込みにとらわれがちである。自営業の保護者やパート労働の保護者にありがちな不安定な生活に違和感を覚え、家族構成が「幸せ」と思えない子ども達に対し、先入観を持ちがちである。

生徒や保護者、同僚など周囲から尊敬されたい、いや、自分はされるべきだと思うあまり、職場の同僚に腹を割って助け合うのも気が引け、地域に協力を頼みにくく、全て自分の力だけで解決しようとしがちである。自分で強引に解決してきた教員は、うまくいか
なかった、助けを求めてしまった教員を冷たくつき放ちがちである。
また、一部の教師の中には、教職員に上下があると思っている。つまり、非常勤よりも常勤、小中学校よりも高校の教師が偉い。副教科の方が国語、社会、理科、数学、英語より下である、など。「下」にいばり「上」にへつらう。年功序列を重んじる公務員の良くない部分が、同僚との関係を分断し、孤立に自らを追い込んでいく。
これらは、専門や採用形態が異なるだけであり、生徒や保護者から見れば同じ教職員であるべき。しかし、生徒や保護者にこの上下の感覚を伝達することでプライドを保とうとすると、副教科や小学校、事務職員や非常勤職員にしわ寄せが行く。それは、回りまわって、自らの首を絞めている。副教科や小学校の授業が荒れれば、あるいは自分が下と見下す教職員の指導に生徒が従わなくなったとき、その教師の仕事は増えるのである。

教員はとりわけ担任は、ヒーラー(癒す人)であるべきである。情報を集めるが、あからさまな干渉を行わない。A君とB君が仲直りしたいとき、C君とDさんが好意を持っているとき、多くの教職員の協力を経て、A君とB君、C君とDさんがよりよい信頼関係にあるような方向付けが望ましい。少なくとも、担任が係わったことにより、生徒や保護者間の人間関係が悪化することの無い様、慎重な配慮が求められる。しかし、実際は早急な対応や、失敗の許されない豪腕を期待され、しなくて良い干渉を、生徒や保護者にさせられているのかもしれない。

教員でも実際には、様々な経歴で様々な性格の先生がいて、アバウトな先生もいれば融通のきく先生もいる。しかし、表向き、真面目な先生にならざるを得ない。生徒や保護者に信頼され、指導中になめられないためというだけではなく、仕事に余裕がないためというのも、理由の一つであろう。

授業の準備や自分を磨く時間が無い。自分を客観的に振り返る余裕が少ない先生が多い。遊び心は余裕から生まれる。遊びと言うのはふざけた気持ちではなく、臨機応変に考え、対応できる柔軟な心という事である。

今の学校では、教師が多様な考え、性格であるのがマイナスであるかのようである。
生徒に求められるのと同様、教師も管理職から見て管理しやすく、従順で画一的であり、指導要領の枠からはみ出さず、ミスが少なく人当たりの良い社交的な人間が、粒ぞろいの学校が望ましいと考えられているような、そんな感触を受ける。
若ければ経験が少ないと、年配であれば子どもと向き合う体力に乏しいと、他業種からの転職組はベテランではない、生え抜きエリートではないと、マイナス評価を受ける。子どもに甘すぎるから子どもがつけあがるのだ、子どもに厳しすぎるから子どもの自主性の芽を摘むのだと。しかし、これらをプラスに置き換えてみて欲しい。若く、子どもの目線に立てる教師、年配の経験ある教師、いろいろな職歴を持つ価値観の多様な教師集団が、チームワークで取り組み、予測できる事態に備え、予測不可能なハプニングに共に戦う、それが当たり前であるなら、教員にはもっと余裕が生じるのではなかろうか。

「ゆとり教育」というのは、教員にまずゆとり。生徒の教育や質を上げるのが目的ならば、教職員の待遇の向上が先である。

教員は失敗を恐れてはならない。失敗を克服する過程を身をもって示すことで、生徒に手本を示すことが出来る。それぞれの教職員が自信を持って信念を貫けるよう、「強い教師集団」であってほしい。

2011年6月2日木曜日

トリリンガル教育案

小学校で、美しい日本語の会話パターンを学ぶなら、日本語と同時に英語、中国語のトリリンガル教育は出来ないだろうか。

小学校低学年で、中高の英語の先生が、「おはようございます」「おはようございます」「ハロー」「ハロー」と耳で聞いて耳で覚える。挨拶の仕方、質問の仕方、そして教えてもらった後のお礼の仕方。買い物でのやりとり。道の尋ね方や、電車やバスの乗り方。日常生活の基本例文を日本語と英語で暗記する。
そして、漢字を覚えるのと並行して、中国語も挨拶程度、話せられないだろうか。小学生に、インドや香港、台湾、フィリピン、マレーシア等のアジア人で英語や中国語の出来るバイリンガルの方に来てもらい、英語や中国語で色々な国の人とコミュニケーションが図れることを、体験してもらいたい。大学生や、日本の企業で勤めている、家族も日本で暮している人が望ましい。
語学を学ぶ意義、大学に行く意義、外国の文化と日本の文化の違いについて、小学生に話してもらいたい。
英語圏、中国語圏のネイティブの先生を呼ぶのは、中学高校でもっと高度な会話ができてからでもよいだろう。