2011年6月4日土曜日

2008年子どものあり方(2011年加筆)

子どものあり方。

子どもの「遊び」は学びの場である。そして、遊びを通して身体づくりをすべきである。
子どもの遊びと学習、叱り方、そして身体作りについて、発達にからめて考えてみる。

遊びとは、外で自然の中で自由な発想の元、遊ぶこと。生きた動植物に触れ、感覚を養い、想像力を培うことである。年齢の異なるグループの中で遊び、弱者をいたわり、年長者との付き合い方を学ぶ。

胎児は、早くから聴覚を発達させ、母親の心臓音をはじめ、家族の会話など多くの音を聴いて育っている。
乳児は、母乳を吸引することで舌や唇の使い方を覚え、肋骨や横隔膜を鍛え、肺活量を増やし、口や喉の筋肉を鍛え、また、大人の発音を真似ることで、舌や唇の筋肉のコントロールを学ぶ。会話等のコミュニケーションの基本は筋肉、身体作りから始まる。
1~2歳児の頃から、手足の動かし方、空間認識を、他動的に、能動的に身体で学習する。ベッドで寝かされた子どもの上に、動くおもちゃがあったとすれば、それは受動的な刺激であるのに対し、背負われて動く背中より見た風景は、他人に動かされて受ける、他動的な刺激である。そして、はいはいなど、自ら動いて、自らつかんだ物が転がったとすれば、これは能動的な刺激である。子どもにとってより効果的な刺激とは、静止画像よりもテレビのような動画や廻り灯篭のようなもの、DVDや電車の車窓、風に動く風車のような受動的なものよりも、三輪車や手にとって鳴るがらがらの方が、より、自分の動きと外界とを関連付ける効果的な刺激となる。大人がおもちゃを動かすのを見て、自分も手にとって真似ると言う行為が、子どもに大人の行動を記憶して自分に置き換えるという重要な学習の機会を与え、自分と他人の区別の形勢を図る。人見知りにより、親しい好意的人間と親しくない人間、もしかすれば自分に害を与える人間との区別が始まる。
また、素直に言うとおりに動いていた乳児が、いやという言葉を覚えて全否定を始める。自分の脳内の命令と、他人からの働きかけの区別が不十分であった乳児が、自分と他人の命令を区別し、取捨選択を始める。おなかが一杯であるのに食えと言われていやという、これは、食欲中枢、満腹中枢が作用する本能的なものであるが、一度いやな気分を味わった食べ物、シチュエーションを思い出して、食べろと言われたときに考えて「いや」と言う行為は、子どもが自分と他人の区別を行う上で、重要な成長過程である。
同様のことは、幼児期や思春期にも生じる。この場合は、脳の機能の再構築時に生じている。それまでの既存の価値観を否定し、あたらしく子ども社会に適応するとき、あたらしく大人社会に適応するとき、そして、成長ホルモンや性ホルモンにより、抽象思考が発達し、家庭における自分、社会における自分を再認識するときに、脳のシナプスが再構築される。これまで、正しいかどうか、検査されることなく素通りされてきた家族のルール、保護者や友人の会話が、再度自分の価値基準に合うかふるいに掛け直され、新しい善悪の基準の下に分類されていく。こうした、必要な発達過程を経るために、年齢相応の集団で年齢相応の「遊び」を体験することは、重要である。

どんな早熟な子どもであっても、全身のあらゆる機能の発達がそろった5歳以降の入学が望ましい。5歳までに、幼・保連携の場で、1対1のコミュニケーションの基本、相手を見て話し、相手の話をきちんと聞けるようになる。
また、1日に数時間はきちんと座って、話を聞いたり、作業をしたり、集中する訓練も必要である。かつてはこれを、宗教が手助けをしていた。どんな家庭の家柄の子どもでも、神社や教会、寺などの行事にて、大人に混じって静かに説法を聞く習慣と言うのが日常的にあった。無宗教の家庭の多い現代では、これを幼稚園・保育園にて、意識的に行わなければならない。それは、DVD鑑賞のような受動的なものではなく、生身の人間によるものであり、その発言によって、立ち上がったり、礼をしたり等、働きかけがあるものでなければならない。このようにして、1対1ばかりでなく、グループや集団のコミュニケーションの基本を、5歳までに学習すべきである。

小学校では、遊ぶときは遊ぶ、学ぶときは学ぶ、日常と非日常の行事など、めりはりのある生活の中、広く浅く、勉強や生活の基礎を固める。
まず、母国語の読み書き、そして算数を身体で覚えるまで繰り返すことである。物の数や量を、幼児期の体験とリンクさせながら身体で繰り返し覚える。九九や分数などは、じっくりやるべきである。


親戚や近所の子どもも、愛情を持ってしかるべきである。年上の子どもが、年下の子どもに、大人が子どもに、きちんとマナーを教えるべきである。マナーの悪い大人がいれば、子どもの前を避けて、より年長の大人が、悪い大人を叱るべきである。
今、自分にとって快か不快か、有利か不利かで叱ったりしからなかったりする大人が多すぎる。声の大きい、力の強いものが、不快と思う相手に対し、生活干渉を行う一方で、自分よりも強い相手には何も言わない。年配者がマナーの悪い若者に虐げられたり、マナーの悪さを叱った近所の大人を、若い親が干渉するなと文句を言うような風潮が、子どもの成長を妨げている。

子ども達は未来をになう、大切な共有財産である。地域社会で育てねばならない。子どもは親のものばかりでなく、教師のものばかりでなく、地域の、国家の宝である。

身体作りについても、学習と同様、様々なスポーツを体験しておく方がよい。歩いたり走ったり、踊ったりボールを投げたり、蹴る、跳ぶ、泳ぐ、とっくみあう、棒を振り回す、あらゆる運動が偏らないように、全身を万遍なく使う運動を、幼・保、小学校で心がけるべきである。
体力は大切である。幼少より、体力はつけておくべきである。中高生になったとき、社会人になったとき、学習に、試験に、仕事に余裕が生まれる。椅子に座り続けるには体力、一日立ち続けるには体力が必要である。また、疲れたときに姿勢をずらしたり、身体の疲れをこまめにストレッチで癒すなどのこつや習慣は、小さいときから大人より学び、身につけていないと急には行えない。肩がこらず、足のむくまない、正しい姿勢や正しい立ち居ぶるまい、疲れにくいペンの持ち方、パソコン画面の覗き方、これもマナーとからめて覚えるべきである。そして、維持できる体力づくりが必要である。
正しい姿勢や立ち居ぶる舞いは、幼少の頃より「形」として学習するのが望ましいが、一方で、普段の走り方や歩き方などは、体格や体力に合わせ、自分でより良いフォームを工夫する習慣も大切である。中高生になって、スポーツで伸び悩んだときに、フォームは修正するべきであって、最初から頭ごなしに教え込むものではない。そうでなければ、年齢に応じた立ち居ぶるまい、体力の増加、減少に応じた立ち居ぶる舞を自力で修正する力がなくなる。生涯学習、生涯スポーツを念頭に置き、本人が主体となって自己の身体を管理できるような教育が望ましい。

子どもと親や教師、大人との係わり方について、考えてみる。

自分で出来ることを子ども自身にどんどんやらせてみる。自立した大人にいきなり成ることはできないからである。
まず、身の回りの整理・清掃の習慣。身の回りをコントロールする習慣が、必要である。
樹上生活のホ乳類、サルから進化した人間は、巣穴を持つホ乳類と異なり、トイレの習慣、整理・清掃の習慣は学習によって得なければならない。
ノートをとったり、実験をするために集中できる環境を、自らの手でつくりだす。例えば、スナック菓子で汚れたペンとノートを理科室に持ち込んで、酸や塩基で汚れた実験台の上に並べ、集中のためと称してガムをかみながらイヤホン片手にレポートを書いていて、正確な実験データが得られるだろうか。
音楽やガムは、上手に使えば気分転換や集中力の増加に効果があるが、時と場合による。自主性を尊重することは大切だが、正しい環境で学習するためには、まかせっぱなしではなく、大人が促してやらねばならない。
金があり、大きな広い部屋を1人使う子どものほうが、兄弟が多くにぎやかな部屋で宿題をする子どもよりも有利なことは確かである。しかし、大人が促してやれば、どちらの環境でも勉強は出来、ほうっておけば、どちらの環境でも勉強は出来ない。
「自主」と「管理」のバランスは本当に難しい。

自分でいろいろ試しているうちに、行動の原因と結果を意識し、自分の起こした行動に対し、責任を自覚しやすくする。大人が子どもに対し、「子どもなりの責任感」を与えるために、「責任」と言うものを与えて体験させ、自覚させるべきである。

最近の子どもの傾向は、大人も同様であるが、楽に要領よく生きることが正しく、内面よりも容姿を磨きがちである。そればかりでは成長できない。
いろいろな考えの大人にもまれ、物事をいろいろな角度から見て、自分の考えを持ち、判断できるように導いてやる必要がある。

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