2011年5月29日日曜日

リーダーについて再考

2003年にP.F.ドラッガーの『ポスト資本主義社会(ダイヤモンド社)』にて、21世紀の日本におけるリーダー論、マネジメント論を読み、2004年に『ジーコのリーダー論(ごま書房)』で、チームワークを育てるリーダーのあり方について読んだ。

ドラッガーについては、すでに多くの方が取り上げており、いまさらここで詳しく述べることもないが、『ポスト資本主義社会』に限定すると、大規模な軍隊のように上司が大勢の部下に「指令」するのではなく、21世紀の組織では、いろいろなテクニックを持った「知識専門家」が集まったチーム(組織)があり、リーダーはそのオーケストラや「指揮者」であるという。そして、ゆくゆくは指揮者のいないジャズバンドのように、リーダー無しで機能する高度な連係プレーの小集団になるという。

ジーコは、「個性(おのおのが得意な個人プレー)を発揮」し、しかも「チームワーク(欲張らず自分の仕事はきちんとし、チームのチャンスの芽を摘まない)」を基本に置いた選手、つまり、「チームのために自分は何ができ、何をすべきか」というチームの貢献を、常に考えて走る選手を育てるのが、リーダーであるという。
選手に信頼されるための実績はもちろん、高度な技術を教えるばかりでなく、選手の身体作り、体調や怪我、(個人的には、膝の故障の予防について、とても参考になった)についてもアドバイスする。そして、選手が能力を発揮しやすいよう、環境を整え、「リーダーと部下の双方からのコミュニケーション」を意識するという。つまり、部下を一方的に叱るのではなく、注意しているときに、チーム全体が作戦やポジションについて自分の意見を述べ、討論させるという。

両者共に、リーダーとは、明確なビジョンつまり共通の目的や使命、成果を持って組織を率いると定義している。ドラッガーはサッカーの監督業もオーケストラの指揮者はと同じ系列であるとしていることから、もしかすると、ジーコ自身、ドラッガーを読んで影響を受けていたのかもしれない。


では、教師は生徒に対しリーダーシップをとるコーチ兼マネージャーか。

時代と共に、教師に期待される内容が変わってきているが、それは、授業の中身の変遷ばかりではなく、時代が、リーダーやマネジメントに求める中身が変わってきたためであろう。

インターネットでリーダー(先導者)とマネージャー(管理者)を検索すると、役割が明確に分かれていない。というのも、業種により、あるいは時代により、マネージャーがリーダーを兼任していたり、マネージャーが現場のリーダーに指示していたりするからである。さらに、コーチ(指導者)とは、クラブを引っ張るリーダーであり、高度な技術を教えるテクニックをもつ技術職、さらに「高潔な人格」で人望があり、目標を設定して達成感をあたえ、自身とモチベーションを引き出し、成長を促すとあり、リーダーの一種である。

例えば、ちょっとややこしいが、病院職員全体の、または医療スタッフ全体のマネージャーである医師は、治療の方針を立てるマネジメントを行いながら、治療そのもののリーダーとなる。患者にコーチはしない。
看護師はかつてのような「医者の部下」ではなく、医師の医療計画にそって、患者をマネジメント(管理)する、看護という現場のリーダーとなる。PTOTもしかり。しかし、看護師と違い、PTOTは患者にとって療法のコーチである。

教師は、教科では強いリーダーシップを求められ、クラブでは高いコーチ技術を求められ、学級では運営のマネジメント能力(事務処理能力)を求められている。しかし、教科でもクラブでも学級でも、「高潔なリーダー」であることが期待され、しかも、知識技能はもちろん、高いコミュニケーション能力が求められている。
養護教諭や実習助手は、生徒の健康管理、実験実習のマネジメントを行うが、強いリーダーシップを求められることはない。医療現場で言う、看護師やPTOTに近いが、クラブの顧問を兼任すると、コーチ技術やリーダーシップも必要である。
教頭は教員のマネジメント能力を、校長は学校のマネジメント能力を問われ、明治、大正、昭和の時代の管理職のイメージ、軍隊の大将のようなイメージからずいぶんと変わってきている。

これら、医師も教師(監督)も、一方通行ならコミュニケーション能力はさほど要らない。しかし、より望ましい、患者や生徒、教頭なら先生(監督なら選手)に好かれる医師や教師(監督)であるためには、患者の状態や病名を正確に知るために、または生徒の状態や学習レベルを知るために、双方向のコミュニケーション能力がかかせない。そして、患者も生徒も保護者も、よりよい医療や教育のために、彼ら本来の知識技能だけでなく、自分の状況や考えを聞いてくれる医師や教師(監督)を望む傾向にある。

近年、患者や生徒、保護者の欲求が高く、理想と現実に押しつぶされていく医師や教師が増加している。患者や生徒の希望にはきりがなく、医師や教師には時間の制約が付きまとう。何のための医療であり教育であるか。個々のよりよい生活のため、正しく評価され、それを元に改善されることにある。患者や生徒、保護者は「理想とするよりよい生活」が現代社会では一人一人異なる。そして、それを得るための情報が多すぎて、あるいは正確な情報が少なすぎて取捨選択できずにいる。医師や教師から得られる、多くの正しい情報に飢えており、その中から個人の生活にマッチしたものを選ぼうと期待している。
医師や教師は、現場では強烈なカリスマで先導するリーダーでありながら、話し合いの場では、中立な立場を保ちながら患者や家族、生徒や保護者、他のスタッフとの調整役を行う「ファシリテイター」であるべきである。そこが、民間企業の経営者や管理者のマネジメントとは異なるところであると思う。

仕事の何を優先し、何を取捨選択するか。教師は担任業を事務職と割り切り、専門教科にて生徒の評価が、授業改善にきちんといかされているのか。評価や業務について、古い慣習にとらわれず、再考する必要があろう。

常に中立な立場を維持するためには、ときには現場を離れ、研修等で目下の課題をつきはなす期間が必要である。かつては、教師には夏季にまとまった休暇があり、多くの教師の自らの研鑽、教養を高める期間となっていた。しかし、多くの企業と同じく、多くの公務員に給与に見合う成果が期待されるに連れて、教員も時間に拘束されることが増えた。

医師も教師も、能力を発揮するための環境が必要だ。

話は変わるが、農業には、工場労働のような8時間労働が似合わない。というのも、天候や病害虫に作業が左右され、時期によって濃淡ができる。やろうと思えばいくらでもやる仕事がある。医療も教育も、農業に近い。人は生き物であり、治療や教育にここまででよいという限界はなく、いくらでもやるべきことがある。そして、人は生き物であり、人生の嵐やアクシデントにさらされ、患者や生徒本人も、家族も、医師や教師も計画通りにうまくいくことはまずない。医師は10時間以上に及ぶ手術を行うこともあれば、休日に患者の様態が急変して呼び出されることもある。そして、それは教師も同様である。帰宅後も、休日も、実は自宅待機に等しい。

生徒の能力が最大限発揮できる環境が、必要である。それは安全な校舎であるが、いれものではない。環境をつくるのは人間である。
教師の能力が最大限発揮できる環境が、生徒のためには必要である。それには、管理職の能力が最大限発揮できる環境が必要である。
生徒や保護者、管理職は、現場の教師の能力が発揮できるよう、教師は生徒や保護者、管理職の能力が発揮できるよう、双方が意識改革して、より能力を発揮できる環境づくりに努めるべきである。

それには、お互いの立場を理解しあえるような、前向きな建設的な話し合いの場が必要である。すでにある、行事や面談で、可能であれば望ましい。
まずは、互いの意見を述べたり、あるいは過去の失敗談をマイナス評価とする医療現場や教育現場の風通しを浴することが先決であろう。失敗を成功に生かすプラス思考こそ、21世紀のリーダー、マネジメントに求められているのである。

適度な早期教育について

現在の子どもの社会的、精神的発達には、早くに開発発展する能力と、未熟なまま退行してく能力とに偏りがある。
彼らの早熟な面を尊重して、進んだ社会性に見合った知識や能力を、バランスよく与える教育について考えてみる。

少子化とメディア、保育園などを、これまで私は原因の一つに取り上げてきて、賛否両論の批判にさらされてきた。仮に、これらが解決されても、アンバランス発達の問題が残るのならば、原因と対策は何であろうか。

大人にかこまれ、子ども同士の異年齢の会話よりも、大人同士の会話、大人との一対一の会話でコミュニケーションを学ぶ、少子化時代の子ども達。
恵まれた保育園で、どの子どもも平等に丁寧に育てられる。均質化の弊害。
かつて、「テレビっ子」「現代っ子」「新人類」「ゲーム脳」などと言われた。原因はテレビか、漫画か、ゲームの質の悪さかともいわれた。

早くに「口が達つ」と言われ、「要領がよく」「同年齢でつるみ」「視覚情報やパターン刺激を好む」彼ら。
意外に年上に可愛がられる半面、モラルやコミュニケーション能力にこれまでと異なる世代ギャップがあるといわれてきた。質のよいテレビやアニメやゲームが育ってきても、大人向きの暴力性描写を子どもから排除しても(もっと意図的に排除すべきだが)、やはりこの傾向は続いているようにも思う。

集中力が続かず、早く結果を求める(褒美を求める)。自分で考える習慣とその時間がない。褒められないと正しい行動かどうか自分で判断できず、不安になってあきがくるのか。受動的に厖大な刺激を受け続けることに馴れさせられている。そして、短いサイクルで休憩や褒美が与えられることから脱却できないでいる。確かに、その傾向をテレビのクイズやゲームが助長している。
昔から、貧しい子ども、金持ちの子ども、早くから家事や家の手伝いで大人に成らされた、遊び体験の足りない子ども達、様々な子どもがいたはずだが、家庭や学校、社会に柔軟性があった。すでに、均一化に馴れ、すぐに結果を求め、他人に対しじっくり自己判断の出来ない世代が両親となり、先生となり、会社の上司となっている。
今は、均一な知識、経験、能力が求められ、枠に当てはまらない子どもや、生徒、社会人が脱落していく。その、評価する両親や先生、上司がすでに、枠に当てはまるかどうか他人に評価され、その身分に安心安定できないでいる。子どもや生徒、部下の評価が自分の評価に直結し、精神的に余裕のない悪循環である。

バランスのよい早期教育とは、厖大な受動的押し付けを減らし、聞いて考え行動する自発的時間を増やすことである。自由に遊び、学び、体験することは、無計画であってはならず、放任させておくことではない。そこに、子どもの危険を回避しつつ、正しい方向に誘導する大人の見守りが必要である。子どもの働きかけに反応し、目標を授ける受け手の姿勢が重要である。

テレビでおもしろおかしい受動的な情報を1歳ごろから与えられるよりも、性別や年齢の多様な兄弟姉妹、大人から直接、厖大な会話や行動パターンを見て聞いて学ぶほうがよい(その周囲の会話や行動が、モラルに反することが多いのも、原因ではあるが)。
あるいは、本や新聞、図鑑など、平面の情報を能動的に捜し求め、遊びで立体的に再現する経験を経るほうがよい。
美しい日本語の会話パターンや例文の蓄積を増やす効果が、かつてはあった。そして、立体をさし絵や平面図や文章で表現し、逆に文章や平面図やさし絵から空間や映像を再現できなければ、学校での書物による集団学習は成り立たない。それを自然に身につけるのは幼児期である。
テレビやゲーム、電卓やパソコンは、基本を身につけた後の、学習や娯楽の補助的な素晴らしいツールとして、位置づけるべきである。

限りあるものを工夫して分け合う知恵。一つのものを交替で使う、大きな子どもが大きいものを取る、逆に幼い子どもに大きなものを譲るやさしさ、いろいろな分け合い方がある。交替で役割分担、ロールプレイングする知恵。
これらは、6歳までに少しずつ学ぶことであろう。
そして、昔なら、2,3歳ならばひとりマイペースで遊ぶのが当たり前だが、小学校低学年にもなると、できる同級生をほめ尊重し、小さな子どもにはハンデをつけていっしょに遊ぶなど、能力の異なる集団で、皆で楽しむ工夫があった。今では、小学校に上がっても一人遊びの傾向が続く。その工夫は、早くから保育園や塾で集団生活を営む今の子ども達なら、もっと早くに身につけるべき態度であると思う(意識して異集団でのマナーやモラルをしつけている保育園や幼稚園と、そうでない子ども達との差が、生じているのであろう)。

早期教育として6歳までに学ぶべきことは、学校教育の前倒しではない。中学生の英語を小学生に、小学生の読み書き計算を単に幼稚園保育所に前倒すという意味ではない。小学校以降で唱えられている、生活科、ゆとり教育、道徳教育、総合学習、体験学習と呼ばれるもの全てが、本来は幼児教育ではなかろうか。自発的に学ぶ姿勢を生み出し、知りたいことを正しく知る方法を大人から学ぶのは、3歳ごろの大人のまねをしたい、知的好奇心が増す時期にこそ、ふさわしい。その学習手段として、ひらがなが読めるようになり、振り仮名を振った絵本や図鑑で自学自習できるなら、それを大人に聴いてもらい、褒めてもらえる環境、伸ばしてもらえる環境があれば、そこが家庭でも、保育園でも、塾でも、どこかに得られれば良いのである。小説の読解や計算は、抽象思考の発達がともなわなければ、丸暗記しても効果は低い。それよりも、数や量の概念を知り、多くの生活体験、実体験を得る方が、後に教科書やパソコンで学ぶときの想像力の助けとなる。
物事の因果関係や、比較などの概念の形成。それを表す日本語の長文の概念が理解できて、それから後、算数の図形やグラフや、数式の意味が理解でき、テストや生活で再現できる。

戦後、これまで学校外で自然と学んできたことが、学べなくなった。地域や家庭や学校で、意識して子どもに体験させねばならなくなった。
手足や頭脳、五感を最大限、幼児期に発達させている子どもと、そうでない子どもとの差が生まれてきた。経済格差とテレビのデジタル化により、今後、テレビをほとんど見ずに育つ、しかも新聞も本もゲームもあらゆる媒体から隔絶された子どもが生まれてくる可能性も出てきた。一人ひとりの子どもに、何が人よりぬきんでいて、何が欠けているか、健康診断、学力診断をするのは、能力があるにもかかわらず、欠けたまま育たないようにすること。そして、子どもを差別やいじめを生むためでなく、差別やいじめから守るためである。子どもは、地域の子ども、家族の、先生の、皆の子どもであり、社会全体で育てるものである。もちろん、大人である若者、親、先生を育てるのも社会全体である。

2011年5月7日土曜日

2008年3月14日「確かな学力」をつけるために、教師に求められている資質は何か。

2008年314日「確かな学力」をつけるために、教師に求められている資質は何か。

「生きる力」育成の一貫として、生徒に「確かな学力」をつけることが求められている。教師は、子どもの問題解決力を導いてやるため、様々な資質が必要である。

「確かな学力」とは、知識や技能ばかりでなく、学ぼうとする意欲や、自分で課題を見つけて自ら学び、主体的に判断し、行動し、よりよく問題解決する資質や能力などのことである。

教員には主に3つの能力が必要とされる。

一つ目は地球的視野に立って行動するための資質能力である。小さな地域社会や、家庭しか知らない子ども達が多く、歴史や文化の流れから、現代日本はどのような位置にあり、これからのグローバル社会においてどのような行動が望まれるか、教師が豊かな人生経験を活かして働きかける必要がある。

二つ目は、変化の時代を生きる社会人に求められる資質能力である。高度成長期、勉強さえしていればいい会社に入り、定年退職まで勤められる時代は終わり、外国から優秀な会社、人材が日本に入って競争する時代となり、子ども達は競争に負けない学力をつける必要が増加してきた。教師はゆとり教育のよさを活かしつつ、厳しい時代に適した指導を塾講師、教材研究し、実践する必要がある。
また、未来の理想的教師像に向かって、知識や技能の向上をはかり続け、生徒の模範となる必要もある。

三つ目は、教員の職務から必然的に求められている資質能力である。教員は生まれつき真面目で慎重な性格である方が適しているとされており、それに加えて事務処理能力とコミュニケーション能力が必要である。また、生徒という未成年者をあいてとする職業のため、精神的、肉体的に上位者として指導するリーダーシップが必要である。

以上、三つの資質能力により、根気よく指導し、生徒は基本や基礎を定着させ、やる気を持たせねばならない。

では具体的にどのような対応が求められているのか、述べて行こうと思う。
例えば、再生医療について学習するとする。これまでの問題解決学習では、再生医療の長所・短所を意欲的に調べ、自分なりの考えを持たせる。その考え=仮説を検証していく過程を重視してきた。しかし、物資に恵まれた豊かな生活や、乏しい生活体験した持たない多くの生徒にとって、自分が病気だったらあって欲しいなあくらいの感想文で終わってしまいがちである。
教員はそこで、臓器移植にまつわる、発展途上国での臓器売買の問題や、国や宗教によって色々な倫理観、解釈があることを示したり、日頃学んでいる理科や社会の知識を使って、長所・短所を判断するよう促したり、生徒を刺激してやることで、学ぶ意欲を引き出し、客観的に科学的に思考して判断するよう導いてやらねばならない。そもそも生命とは何か、何のために学び、生かされているのかと言う問いに答えるだけの能力が求められる。

私はこれらの資質能力に加え、教員は守るべき伝統は守りつつ、新しい事へチャレンジする精神と、公務員としての広い教養が必要であると考えている。
常に学び続けるやわらかい頭脳でもって、様々な家庭環境の子ども達、それぞれに働きかけていく。
子ども達の手本となるような実行力は、生徒が教員に親しみを持ち、信頼を寄せる一因となるかもしれない。
現在は、保護者の高学歴化による、保護者の教師への不信感が問題となっている。自分の出身校より下の学校を出ている教師を見下し、その気持ちが生徒へと移り、生徒が教師を信頼しなくなるということも聞く。
保護者の信頼を得るためにも、教員には、社会人、公務員としての常識や広い協調が備わっており、自信を持って教えることが出来る様に努力し続けるべきであると考える。

日産自動車の社長、カルロス・ゴーン氏は次のように述べている。「教育の役割は、成長への意欲を持たせることである」と。
生徒は体験学習により、乏しい生活体験を補い、自ら課題を見つけて学び、自分の頭で思考して行動へとつなげていく。
そんな生徒へ、教師は高度なコミュニケーション能力を駆使し、他の教員や保護者、地域住民の協力を得ながら、働きかけ、成長への意欲を引き出していく。子ども達の能力、家庭環境や経済力に係わらず、全ての子ども達が、それぞれに応じた学力向上のために、教師は地球的視野に立ち、時代の変化へ柔軟に対応し、リーダーシップを発揮し、速やかな行動力と広い教養を兼ね備え、導いていく資質が求められていると思う。



201157日 追記
日産自動車は、
「すべては一人ひとりの意欲から始まる」とし、
「社員のこうした『多様性』が会社の強みになる」「多様な意見を出し合い、ぶつかり合う方が発展的、創造的アイデアがある」とホームページで述べている。
トヨタ自動車の「質実剛健」、「家庭的美風(家族のような一丸となった社員の気質)」とは、また、異なっている。

2011年5月6日金曜日

2008年8月10日 子どもの多様性にどのように対応するか

2008年8月10日

人類は少人数の子孫を大切に育て、長期間教育することで文化を継承し、繁栄して来た。現代日本は少子高齢化が進み、益々貴重な若者への手厚い教育が望まれる。本来、生物は形質が多様であり、一人一人の能力もまた、多様である。進路の選択や生き方の選択の責任は生徒や保護者にあるとはいえ、才能を伸ばし、可能性を広げる学校教育の役割は大きい。

戦後、6・3・3制が長らく固定されてきて、近年、受験戦争に三年毎に駆り立てられる子どもが問題となり、高校選抜なく連続して六年間教育の受けられる中高一貫教育が始まっている。

また、稀有な才能、音楽やスポーツ理数に秀でた子どもの、大学鳶入学など、進路の複線化が進み、中学校の選択科目もあり、個性に応じた選択は、制度面ではかなり充実してきている。

さらに、特別支援教育が導入され、これまでは障害とみなされてこなかった、LD、ADHD、高機能自閉症の子ども達も、個々に応じたサポートが受けられるよう変わりつつある。制度の改革は、子どもの多様性に教師が個別に対応していく上で、大きな効果をもたらすと考えられる。

以前、偶然にも、和歌山県有田郡内の中学校で数学をみてきた生徒を、高校でも続けて数学を教えたことがあった。生徒の性格や苦手な分野を知った上で、指導するのはとても効果があった。高校になると急に暗記量が増え、自宅学習の時間も比例して増えるべきなのだが、中学時代のつもりでのんびり構えている子ども達に、高校は単位をとらないと進級できないと、丁寧に説明してやることも出来た。

自尊心の高い子どもは見守り、厳しくした方が頑張れる子どもには発破を掛け、四月最初から、無駄なトラブルなく、スムーズにコミュニケーションがとれた。中高一貫校では、こうした利点が大きいと思われる。

立派な制度をうまく活用して行くのは、教師の腕にかかっている。教えているのが進学目的の普通科であれ、専門学科や総合学科であれ、以前よりも勉強が出来るようになりたいと望む子ども達はたくさんいる。

ただ、教科書通りのペースで進める子どもと、そうではない子どもがいる。食事にたとえると、毎日お腹一杯食べてすくすく成長する子どももいれば、食が細く、一度にたくさん消化できない子ども。何でも好んで食べる子どももいれば、病気や体質で受け付けない食物のある子どももいる。学習でも食事と同様、多様な子どもが存在し、彼らに合わせたメニューを考えていく必要がある。つまり、これまでの横並び意識を改め、過度に年齢にとらわれた価値観から脱却して、子どもの個性を尊重していかねばならない。

一斉授業の中でも、個に応じた指導は可能であると思う。例えば、50分の授業の中で、基礎に重点を置いた内容と、発展的な内容を組み合わせ、全員一緒に学ぶ。あるいは、難易度の異なる課題を一セット、平等に与えて、それぞれのレベルにて立ち往生した課題で、ヒントや解決法を指導する。書物や、平面図から、具体的なイメージのわきにくい子どももいるので、時々、模型やDVDの映像を活用するなど、工夫はいくらでも出来る。

科目に関心の雨水子ども、難解な専門用語ではついていけない子ども達にでも、分かりやすい授業と言うのは、関心がありやる気があってできるこどもにとっても、わかりやすい授業であると、私は考えている。

それでも、作業スペースが遅く、理解に時間のかかる子どもや、何でも納得してから出ないと出来ない子どもへは、対応しきれない場合も考えられる。

彼らのために、補充学習で遅れを取り戻してやり、授業中に気軽に質問できるよう、ティームティーチング等も併用したほうがよいであろう。語学は、間違って暗記する前に気付いて訂正してやれるし、数学は学力差の大きい科目なので、付き添う教員が多いほど、学習効果も高まると思われる。

理科・体育・音楽などの実習では、開放感から学ぶ目的を見失いやすいので、複数の教員により、実習を楽しく意義ある授業へと導いて行った方がよい。専門家の協力を得ることが有効な場合もあるだろう。

多様な子どもは、目的別に分けて教えた方がよいと言う考えもあろう。運動能力に大差のある子ども同士、同じ協議に参加させて、お互いがやる気を失い、怪我をすることもありうる。しかし、多様な子どもが共存することで、互いが得ることは大きい。異なる才能をたたえあい、弱者をいたわりあってこそ、学校教育であろう。男女共学になったのも、そのためではないかと思う。

地元出身者から帰国子女、障害を持つ生徒から問題を起こしがちな生徒まで共存する教室で、日本や和歌山を大切に思い、未来をになうために、一人ひとりの成長に寄り添って教えて生きたいと、私は思っている。



2011年5月6日追記

制度的には小中一貫が都合が良いが、心身の発達面では中高一貫が望ましい。
勉強もスポーツも受験で途切れることなく、
試合や試験で身体を壊すことなく、
じっくり生徒を育てることが出来る。
反抗期と受験が重なる不運も少ない。

生徒は大人として扱えば、大人の分別で行動できるようになる。
私服の進学校では、通学から大学生と同じような社会人の扱いを受け、
早く精神的に成長する。
有名高校も、そのプライドから、一目を置かれて成長できる。

たとえ、底辺高であっても、責任を与えられ、自立した大人として扱ってやるべきだ。
規則を増やせば増やすほど、精神年齢が退行していく。
生徒にとっても教師にとってもお互い不幸である。

自己主張できる子どもは、他人の気持ちも推し量れる人付き合いのうまい子どもでもある。
最新のファッションに身を包む子どもは、周りの状況を良く感じ取り、
気配りのできる子どもでもある。
高校生らしくない態度や服装の子どもの方が、社会に出たとき普通にひとづきあいのできる社会人である。

社会性を身につけさせ、進路指導すべきは、
自己主張できないこどもや、勉強しか出来ない子どもの方ではないだろうか。


子供同士教えあう学びあう授業で小中学校来た子どもが、
高校で教えあおうとして、授業中の私語で叱られてしまうことがある。

指導法でなにか、共有できるものはないのだろうか。
保育園のルール(6年間過ごす子どももいる。ここで、3つ子の魂、人格がかなり形成される)、小学校(これも6年間だが、保育園より彼らは短く感じるのだろう)のルールが違うことで生じるプロブレム、
高校でようやく、自分と同レベルの同級生と同じスピードの授業を受けられると言う幸運に、
受けねらいで、冗談をうまく言えると教師や友人に好かれると思っている子ども、
友達に教えたり発言するほど平常点が上がると思っている子ども、
多様な価値観のまま来て、がっかりしてやる気を失っていないか。

2008年6月8日「確かな学力」の育成

2008年6月8日「確かな学力」の育成

「確かな学力」の育成には、学ぶ意欲や主体性が重要である。学力の向上のために、生徒のやる気を引き出し、家庭と連携し、基本的な生活習慣、学習意欲を確立する指導が求められている。

子ども達と出会って思うのは、ほとんどの子どもが家族や先生に褒められたいとやる気を秘めている。しかし、子ども達の行動はやる気と一致しないかのように見える。目先のテストの一点に一喜一憂し、要領よく楽に点を取りたがり、難問を解くのがかっこよく、基本をおろそかにしがちである。

友達の前で地味にコツコツとやるのは格好悪いと、こっそり家で、塾で努力し、学校ではやる気のない振りをする。教師の側は、授業で教えたことがすぐにできる子どもが多いと、自分の教え方で良いと思いがちであるが、実際はすでに塾で予習していて出来ている場合も多い。勘違いにより、生徒の理解レベルを超えた授業になると、多くの子どもはやる気だけではついて行けなくなる。その結果、学ぼうと言う意欲が薄れていくように思われる。

このように今の子ども達の学習意欲の低下は、指摘どおりに存在すると思うが、その原因の多くは、環境にあると思う。幼少の頃より、刺激の強い映像や効果音に慣らされている今の子どもに、変化の少なく結果の出にくい「普通の授業」や「教科書の実験」は退屈。不景気で精機雇用が少なく、頑張って勉強したところでいい会社や幸せな人生が待っているとは限らず、夢や希望を持ちにくい。

生活習慣にいたっては、家族の長時間労働のために、幼い子どもがひとりで食事をしたり、就寝が深夜になることもめずらしくない。移動はマイカーの後部座席でゴロゴロ。通学する体力、長時間勉強机に座る体力も不十分のところに、夜更かし、朝食抜きが重なれば、どんなに知能が高く、意識の高い生徒であっても、学び続けようという気力が失われがちであると思われる。

学習習慣以前に、多くの問題が生活面にある。

では、どのように教師は取り組むべきか。教科を教える場合、生徒一人ひとりのレベルをよく把握し、できる子もできない子も前進できるようなメニューを工夫すべきである。採点したテストでは、表面上の点数ばかりに惑わされず、生徒がなぜ間違い、何が足りないのか、正しく判断して活用すべきである。

また、客観テストばかりに頼り過ぎず、資料や自分の意見をまとめる思考力を育成し、なぜ、高校で理科を学ぶ必要があるのかを考えさせる。

授業に関心を持たせるには、目新しい実験ショーばかりでなく、最近の新聞記事で、最新科学にふれさせたり、世界的な大発見は二十代の若い頭脳で行われている例を示し、最先端の科学に自分も近づけるのではという夢や希望を与える。

また、授業中や事ある毎に、就職や進学を意識させ、資格を取ることも勧め、高卒の資格はとりわけ重要であることを認識させる。

ただ、楽しいだけでは意欲は続かない。生徒自らの目的意識を高める必要がある。

特別活動は、強化では教えにくい生活指導や、教師と生徒の関係を深める大切な機会である。生徒を多面的に捕らえ、伸ばしてやるきっかけを探るチャンスでもある。生活は学ぶときは学ぶ、スポーツするときはスポーツを楽しむ、メリハリが大切であると理解させる。

地味な準備の積み重ねが、華やかな文化祭、球技大会等を一層充実したものに変えることを、体験する。遠足で歩きながら、日頃の運動不足について考え、動植物に触れて生命について考え、忙しくじっくり考える間のない日常を離れて自分を見つめなおう事も大切だ。遠足は体力をつけ、文化に触れるという意義をも大切だ。

が、机の上の授業に戻ったときに、新しい気持ちになれるようなそんなストレス発散、気分転換を味わい、イライラ、モヤモヤしたときに気持ちをコントロールし、他人や動物、物に当たらない心の強い生徒を育成する上で、有意義であろう。集中力や持久力の育成にもつながる。

このように、教師が意識改革に取り組めば、生徒の学習意欲は改善されると思われる。ここまで書いたことは、一般的な生徒であり、実際には多様な家庭の事情、本人の病など、抱えた生徒の場合にはj個別の対応が必要であろう。

意欲の欠如ではなく、学習障害、注意欠陥多動性障害、高機能自閉症、アスベルガー症候群などの場合、教師の「気づき」が重要である。

また、発達初期に、ホスピタリズム、文化的剥奪、マターナルデプリベーションにより、学習が阻害されており、発達遅延が見られる可能性が見られる可能性も考えられる。

クラスや世代によって、同じ指導をしても反応が異なることもある。

いづれにせよ、学習意欲の向上は、あらゆる方向から働きかけ、大勢の教師が、家庭が、地域社会が協力し合う方が効果が高いと思われる。生徒が勉強に集中し、関心を持ち続けられるような環境の整備が望まれるであろう。


2011年5月6日追記

ぼうっと手持ち無沙汰になることがない。たとえ3歳や5歳の子どもでも、じっくり考える暇がないのが現代の子ども達だ。今日、友達にこんなきつい言葉を言ったな、明日、あやまろうか、などと歩きながら振り返る時間は無い。学校が終われば、即塾の送迎で、頭は塾の宿題のことに切り替わっているかもしれない。

これが原因とその結果を考える思考を妨げている。
これが、自分と友人の関係を客観視して突き放すことを妨げている。

自転車にきちんと座れない、電車の椅子にきちんと座れない子ども。
学校の椅子に座れない子どもが会社でデスクワークが出来るであろうか?

企業に問いたい。良い社員が欲しい。学校で、きちんと社会人として自立できるよう教えてくれ。
というが、企業に、優秀な子ども達を社会全体で育てていこうという気構えがあるのか。
今の社員の子どもが、次の社員の卵である。
今の社員を大切にし、きちんと子どもと向き合えるような投資をすることが、
次世代の優秀な社員につながる。

大学は高校のせいに、高校は中学の所為に、小中は保育園や保護者の所為にばかりしていては、
物事は解決しない。その生徒が、未来の保護者である。

2011年5月5日木曜日

「教育とは」2008年バージョン

教育とは、彫刻のように、最初に構図を決め、あら削りに形を整えていかねばならない。
いきなり細部の緻密さにこってすすめると、いびつになって、修正できなくなる。

教育において、細かく教え込むほど、覚えようとする意欲や定着を阻害していく。
かといって、最初にほったらかして我流を身につけさせると、後で悪いくせをとるのが苦労する。

一見、矛盾するような話だが、頭の固い大人でも、
教え方一つで、ゴルフが上達したり、車の運転ができるようになる。

短時間で身につけるノウハウが、ゴルフのコーチングや、自動車教習所に存在する。
大人への教え方のテクニックについて、自動車を例に考えてみる。

自動車教習所では、学科と実技を平行して進める(おとなは理屈から)。
しかも、教官は助手席で見守り、助言するだけ。
緊急時以外は、生徒のハンドルやブレーキにふれることはない。

指示器もギアも、どんなに未熟な生徒であっても、まずは自分の手でゆっくりと動かす。
こうして、どんな状況で何をすべきか、身体で覚える。
身体で覚えたことは忘れにくい。自分で運転ができると言う喜びがモチベーション。

学校教育も、こうあるのが望ましい。

「教える」というのは、手取り足取り指示を出し、ミスを叱るばかりではないことが、
自動車教習所の例からよくわかる。

また、教員が見守る時間、生徒に考えさせる時間も大切なことがよくわかる。

すでに自己流の学習習慣が、小中学校のうちに定着してしまっている高校生は、
大人の学習に近いと言える。
一方で、頭の柔らかく、吸収が早いと言う子どものよさも併せ持っている。

高一の時点で、規則正しい学校生活や学び方を身につけさせてやれば、
まだまだ伸びる可能性を持っている。

まずは、高校生とはどうあるべきかという構図、構想を、教員が頭にしっかりと描き、
枠からはみ出した部分を荒削りに削って、整えてやるべきである。

生活習慣やよき学習態度が定着するようしむけつつ、いよいよ各教科の内容を教える。

ここで、難しいことを短時間に詰め込んだり、説明を聞くばかりでは、せっかくの集中力を切らしてしまう。

学んでは考えて実践。質問や小テストをうまく多用して、五感を使って、身体で覚えさせることが大切である。そう、車の運転を覚えるのと同様、きちんと見守ることが大切である。

2010年7月下旬、新型インフルエンザ対策第二弾

2010年5月18日早朝3時半、新型インフルエンザ流行の兆しに伴い、予防措置として、

「休校中は繁華街に出歩かずできるだけ自宅で待機する、
教職員と生徒全員の健康チェック、
手洗いマスク、アルコール消毒の実践と、
休校中の自宅での課題の作成、
発熱、感染の疑いがあれば、速やかに病院に受診して、タミフルの服用」

を立案した新型インフルエンザ対策第一弾に続き、
7月下旬に、予防ではなく蔓延を前提とした対策へシフトするよう立案。

〇自宅療養が事情でできない生徒のための合宿所(案)
体育館や柔道場など。
・水、非常食、体操服などの着替え予備、
・ティッシュや布団などの日用品、
・洗濯機、電子レンジ、冷蔵庫などの家電、
・隔離用の簡易テント

〇出勤できない教職員の増加(保育所の閉鎖や家族の看護等による)
交通、病院、役場、銀行のマヒ、あらゆる可能性を想定した対策が必要。

〇一般薬の備蓄、日常消耗品の備蓄

の3つの準備を発案した。

2011年5月1日日曜日

今日の提言Today's suggestion1(モバトークより)転載、2010・10・3付け

今日の提言Today's suggestion1(モバトーク)より転載、2010・10・3付け

10月3日

  • 本物の(豚でない)鳥インフルエンザ(新型)が発生したら、食料買い込んで三週間こもるべき。パンデミックの前に道路や鉄道を封鎖し地域単位で封じ込めるべき。友人とはこのモバゲー(携帯やパソコン)だけで遊ぶ(学ぶ)べし!
    親や先生に学校に行けといわれても、学校で一人でも発生していたら仮病を使って自分の命は自分で守るべし!
    とにかく地震や火事津波災害時に誰がなにを担当しどういう連絡手段でどこを本拠地にするか日頃から会社や学校、家庭で話し合って置くべき。

  • 教育は(子どもの成長の)芽を摘まない事を第一に。自分で太陽光や土から育つ植物のように、人が手を加えなくとも子どもの心身は育つが、手をかければかけただけの効果あり、ただし成長をじゃましてはいけない。
    スポーツも勉強もバランスと基本が大切。しっかりとした基礎は幼少時のバランスとれた刺激、体験から。子どものステップを飛び越すことなく左右上下バランスよく身につけるべき。ひとつの科目や種目に特化するのは中高生でよい。
  • 大学生であれ、なんのために専門を深めるのか「羅針盤」として広い教養は不可欠。プロの野球選手やサッカー選手でランニングやキャッチボール、パス練習が下手で苦手なものはいない。
  • 明日の答えは過去にある、明日の手がかりは世界史、生物史、地球史にかかれている。個人の努力でできること、思いつく知恵は知れている、後輩は明日の先輩、年寄りは未来の自身、時は止まらず、人は変わらずそしてひとは成長して変わっていく。

新型がひと段落し、安心の世の中だが、2点注意が必要。まず、外出しなければ感染しないのだから、冷静になること。いたずらにあおってはいけない。
長い目で見れば、どのインフルエンザもかつては新型であったのだ。スペイン風邪しかり。
 もうひとつは、なまじ豚インフルがたいしたことが無かったため、次回の鳥インフルでたいしたことがないとなめてかかる人が多いことが予想される。そして、無駄になったタミフルのため、今度は備蓄をやめようという方向になることが予想される。しかし、まったく別の病気と思い、あなどってはいけない。

教育は基礎の広く頑丈さが大切。深く打ち込んだ杭、きちっと積み重ねた石垣、大きな白やビルは地面の下の基礎によって支えられている。