2011年5月29日日曜日

適度な早期教育について

現在の子どもの社会的、精神的発達には、早くに開発発展する能力と、未熟なまま退行してく能力とに偏りがある。
彼らの早熟な面を尊重して、進んだ社会性に見合った知識や能力を、バランスよく与える教育について考えてみる。

少子化とメディア、保育園などを、これまで私は原因の一つに取り上げてきて、賛否両論の批判にさらされてきた。仮に、これらが解決されても、アンバランス発達の問題が残るのならば、原因と対策は何であろうか。

大人にかこまれ、子ども同士の異年齢の会話よりも、大人同士の会話、大人との一対一の会話でコミュニケーションを学ぶ、少子化時代の子ども達。
恵まれた保育園で、どの子どもも平等に丁寧に育てられる。均質化の弊害。
かつて、「テレビっ子」「現代っ子」「新人類」「ゲーム脳」などと言われた。原因はテレビか、漫画か、ゲームの質の悪さかともいわれた。

早くに「口が達つ」と言われ、「要領がよく」「同年齢でつるみ」「視覚情報やパターン刺激を好む」彼ら。
意外に年上に可愛がられる半面、モラルやコミュニケーション能力にこれまでと異なる世代ギャップがあるといわれてきた。質のよいテレビやアニメやゲームが育ってきても、大人向きの暴力性描写を子どもから排除しても(もっと意図的に排除すべきだが)、やはりこの傾向は続いているようにも思う。

集中力が続かず、早く結果を求める(褒美を求める)。自分で考える習慣とその時間がない。褒められないと正しい行動かどうか自分で判断できず、不安になってあきがくるのか。受動的に厖大な刺激を受け続けることに馴れさせられている。そして、短いサイクルで休憩や褒美が与えられることから脱却できないでいる。確かに、その傾向をテレビのクイズやゲームが助長している。
昔から、貧しい子ども、金持ちの子ども、早くから家事や家の手伝いで大人に成らされた、遊び体験の足りない子ども達、様々な子どもがいたはずだが、家庭や学校、社会に柔軟性があった。すでに、均一化に馴れ、すぐに結果を求め、他人に対しじっくり自己判断の出来ない世代が両親となり、先生となり、会社の上司となっている。
今は、均一な知識、経験、能力が求められ、枠に当てはまらない子どもや、生徒、社会人が脱落していく。その、評価する両親や先生、上司がすでに、枠に当てはまるかどうか他人に評価され、その身分に安心安定できないでいる。子どもや生徒、部下の評価が自分の評価に直結し、精神的に余裕のない悪循環である。

バランスのよい早期教育とは、厖大な受動的押し付けを減らし、聞いて考え行動する自発的時間を増やすことである。自由に遊び、学び、体験することは、無計画であってはならず、放任させておくことではない。そこに、子どもの危険を回避しつつ、正しい方向に誘導する大人の見守りが必要である。子どもの働きかけに反応し、目標を授ける受け手の姿勢が重要である。

テレビでおもしろおかしい受動的な情報を1歳ごろから与えられるよりも、性別や年齢の多様な兄弟姉妹、大人から直接、厖大な会話や行動パターンを見て聞いて学ぶほうがよい(その周囲の会話や行動が、モラルに反することが多いのも、原因ではあるが)。
あるいは、本や新聞、図鑑など、平面の情報を能動的に捜し求め、遊びで立体的に再現する経験を経るほうがよい。
美しい日本語の会話パターンや例文の蓄積を増やす効果が、かつてはあった。そして、立体をさし絵や平面図や文章で表現し、逆に文章や平面図やさし絵から空間や映像を再現できなければ、学校での書物による集団学習は成り立たない。それを自然に身につけるのは幼児期である。
テレビやゲーム、電卓やパソコンは、基本を身につけた後の、学習や娯楽の補助的な素晴らしいツールとして、位置づけるべきである。

限りあるものを工夫して分け合う知恵。一つのものを交替で使う、大きな子どもが大きいものを取る、逆に幼い子どもに大きなものを譲るやさしさ、いろいろな分け合い方がある。交替で役割分担、ロールプレイングする知恵。
これらは、6歳までに少しずつ学ぶことであろう。
そして、昔なら、2,3歳ならばひとりマイペースで遊ぶのが当たり前だが、小学校低学年にもなると、できる同級生をほめ尊重し、小さな子どもにはハンデをつけていっしょに遊ぶなど、能力の異なる集団で、皆で楽しむ工夫があった。今では、小学校に上がっても一人遊びの傾向が続く。その工夫は、早くから保育園や塾で集団生活を営む今の子ども達なら、もっと早くに身につけるべき態度であると思う(意識して異集団でのマナーやモラルをしつけている保育園や幼稚園と、そうでない子ども達との差が、生じているのであろう)。

早期教育として6歳までに学ぶべきことは、学校教育の前倒しではない。中学生の英語を小学生に、小学生の読み書き計算を単に幼稚園保育所に前倒すという意味ではない。小学校以降で唱えられている、生活科、ゆとり教育、道徳教育、総合学習、体験学習と呼ばれるもの全てが、本来は幼児教育ではなかろうか。自発的に学ぶ姿勢を生み出し、知りたいことを正しく知る方法を大人から学ぶのは、3歳ごろの大人のまねをしたい、知的好奇心が増す時期にこそ、ふさわしい。その学習手段として、ひらがなが読めるようになり、振り仮名を振った絵本や図鑑で自学自習できるなら、それを大人に聴いてもらい、褒めてもらえる環境、伸ばしてもらえる環境があれば、そこが家庭でも、保育園でも、塾でも、どこかに得られれば良いのである。小説の読解や計算は、抽象思考の発達がともなわなければ、丸暗記しても効果は低い。それよりも、数や量の概念を知り、多くの生活体験、実体験を得る方が、後に教科書やパソコンで学ぶときの想像力の助けとなる。
物事の因果関係や、比較などの概念の形成。それを表す日本語の長文の概念が理解できて、それから後、算数の図形やグラフや、数式の意味が理解でき、テストや生活で再現できる。

戦後、これまで学校外で自然と学んできたことが、学べなくなった。地域や家庭や学校で、意識して子どもに体験させねばならなくなった。
手足や頭脳、五感を最大限、幼児期に発達させている子どもと、そうでない子どもとの差が生まれてきた。経済格差とテレビのデジタル化により、今後、テレビをほとんど見ずに育つ、しかも新聞も本もゲームもあらゆる媒体から隔絶された子どもが生まれてくる可能性も出てきた。一人ひとりの子どもに、何が人よりぬきんでいて、何が欠けているか、健康診断、学力診断をするのは、能力があるにもかかわらず、欠けたまま育たないようにすること。そして、子どもを差別やいじめを生むためでなく、差別やいじめから守るためである。子どもは、地域の子ども、家族の、先生の、皆の子どもであり、社会全体で育てるものである。もちろん、大人である若者、親、先生を育てるのも社会全体である。

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