2011年6月4日土曜日

2008年教職員のあり方(2011年加筆)

教職員のあり方。

一般社会に比べ、教員は真面目な性格の人物が多いように見受けられる。生徒を叱ったり、正確な評価をつけるために、ミスを許さず、自分にも他人にも厳しくなりがちなのが、教員の性格の特徴である。
教員の真面目さは、職務上必要不可欠である。が、時には生徒にマイナスになることもある。

何年生ではこれを学ぶべきだ、この教科で扱うのはここまでだと、教科書に忠実でありすぎる、また、はみ出しを許さない圧力を受けることもある。標準服がもともと決められた制服ではないように、教科書はもともと標準を定めたものであり、本来は教員が自ら研究し、まとめた教材で授業すべきであるが、少しでも多忙な教員の負担を軽くするために、善意で定められた指導参考書である。
教科書に忠実でありすぎると、基礎学力のない子どもや障害を持った子どもを指導するのが、負担が大きく感じられる。その子どもなりの成長を助けることが、生徒の成績、教員の評価につながるのであれば、教員の自由裁量は広がり、負担は軽くなる。
真面目な教員はまた、社会はこうあるべきだという固定観念にもとらわれがちである。しかも、自分のような安定した正社員があたりまえ、両親がそろって暮らす子ども、兄弟や祖父母など、大家族の子どもはより幸せに違いないという思い込みにとらわれがちである。自営業の保護者やパート労働の保護者にありがちな不安定な生活に違和感を覚え、家族構成が「幸せ」と思えない子ども達に対し、先入観を持ちがちである。

生徒や保護者、同僚など周囲から尊敬されたい、いや、自分はされるべきだと思うあまり、職場の同僚に腹を割って助け合うのも気が引け、地域に協力を頼みにくく、全て自分の力だけで解決しようとしがちである。自分で強引に解決してきた教員は、うまくいか
なかった、助けを求めてしまった教員を冷たくつき放ちがちである。
また、一部の教師の中には、教職員に上下があると思っている。つまり、非常勤よりも常勤、小中学校よりも高校の教師が偉い。副教科の方が国語、社会、理科、数学、英語より下である、など。「下」にいばり「上」にへつらう。年功序列を重んじる公務員の良くない部分が、同僚との関係を分断し、孤立に自らを追い込んでいく。
これらは、専門や採用形態が異なるだけであり、生徒や保護者から見れば同じ教職員であるべき。しかし、生徒や保護者にこの上下の感覚を伝達することでプライドを保とうとすると、副教科や小学校、事務職員や非常勤職員にしわ寄せが行く。それは、回りまわって、自らの首を絞めている。副教科や小学校の授業が荒れれば、あるいは自分が下と見下す教職員の指導に生徒が従わなくなったとき、その教師の仕事は増えるのである。

教員はとりわけ担任は、ヒーラー(癒す人)であるべきである。情報を集めるが、あからさまな干渉を行わない。A君とB君が仲直りしたいとき、C君とDさんが好意を持っているとき、多くの教職員の協力を経て、A君とB君、C君とDさんがよりよい信頼関係にあるような方向付けが望ましい。少なくとも、担任が係わったことにより、生徒や保護者間の人間関係が悪化することの無い様、慎重な配慮が求められる。しかし、実際は早急な対応や、失敗の許されない豪腕を期待され、しなくて良い干渉を、生徒や保護者にさせられているのかもしれない。

教員でも実際には、様々な経歴で様々な性格の先生がいて、アバウトな先生もいれば融通のきく先生もいる。しかし、表向き、真面目な先生にならざるを得ない。生徒や保護者に信頼され、指導中になめられないためというだけではなく、仕事に余裕がないためというのも、理由の一つであろう。

授業の準備や自分を磨く時間が無い。自分を客観的に振り返る余裕が少ない先生が多い。遊び心は余裕から生まれる。遊びと言うのはふざけた気持ちではなく、臨機応変に考え、対応できる柔軟な心という事である。

今の学校では、教師が多様な考え、性格であるのがマイナスであるかのようである。
生徒に求められるのと同様、教師も管理職から見て管理しやすく、従順で画一的であり、指導要領の枠からはみ出さず、ミスが少なく人当たりの良い社交的な人間が、粒ぞろいの学校が望ましいと考えられているような、そんな感触を受ける。
若ければ経験が少ないと、年配であれば子どもと向き合う体力に乏しいと、他業種からの転職組はベテランではない、生え抜きエリートではないと、マイナス評価を受ける。子どもに甘すぎるから子どもがつけあがるのだ、子どもに厳しすぎるから子どもの自主性の芽を摘むのだと。しかし、これらをプラスに置き換えてみて欲しい。若く、子どもの目線に立てる教師、年配の経験ある教師、いろいろな職歴を持つ価値観の多様な教師集団が、チームワークで取り組み、予測できる事態に備え、予測不可能なハプニングに共に戦う、それが当たり前であるなら、教員にはもっと余裕が生じるのではなかろうか。

「ゆとり教育」というのは、教員にまずゆとり。生徒の教育や質を上げるのが目的ならば、教職員の待遇の向上が先である。

教員は失敗を恐れてはならない。失敗を克服する過程を身をもって示すことで、生徒に手本を示すことが出来る。それぞれの教職員が自信を持って信念を貫けるよう、「強い教師集団」であってほしい。

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