<序論>
『聴覚障害教育の基本と実際』によると、明治時代の聴覚障害の児童生徒に対する教育とは、それまで日常で用いられていた手話と筆談が中心で、主に私立学校にて行われていた。やがて、米国のベルによる発声法、宣教師ライシャワーとその娘の影響にて、日本でも口話中心の教育へと変遷していった。
口話法には、戦前の①「純口話法」と戦後の②「聴覚口話法」というのがある。
①「純口話法」というのは、大正時代に東京や名古屋で行われた、口話能力を高める指導法であり、「言語中心主義」「読唇中心主義」「発語中心主義」の三大方針を掲げる教育である。少人数で外国語の文法を学ぶように、繰り返し学習する。
それに対し、②「聴覚口話法」というのは、補聴器で聴覚を呼び覚まし、日本語の直接習得を図ろうというものである。文法は、会話から自然に学ぶことができる。
一方で大阪を中心に手話を併用する教育もあった。昭和4年、大阪市立聾唖学校では、聴力の程度、口話に対する適性、失聴年齢などによって、“口話中心”“手話・指文字中心”“それらの併用”グループの3つにわける、「ORAシステム」が考案された。また、近年では、口話による聴覚コミュニケーションを補う目的で、子音を手指サイン、母音を口形で示すキューサインの併用が進められているp38-39)。
<口話法と手話法との比較>
◎口話法(聴覚口話法)の「効果」と「限界」
聴覚障害による、二次的な言語・認知・社会性の遅れを防ぐためには、できるだけ早期に障害を発見し、早期に教育を開始することが必要である(p59)。出生後の早い時期に、聴覚に重度の障害を受けると、周りの人々の話し言葉を聞いて自然に日本語を習得することが困難となる。話し言葉が年齢相応に形成された上で、ようやく小学校で学習に必要な言語や、書き言葉を習得できるようになる。言語能力があまりに低いと、中学高校の高度な抽象思考へ移ることが不可能となる。聴覚障害児が日本語の基礎を形成するためには、補聴器を用いた聴覚口話法が授業で有効である。
口話法の最大の利点は、進学や就職で有利なことである。職場では良好な人間関係に不可欠な、挨拶といった基本的なマナー、円滑なコミュニケーションが求められる。手話を知らない多数の人と接するところでは、口話法が望ましい。
しかし、現実の子ども達は能力に差が大きく、中等部や高等部の生徒でも、読書力のレベルは小学校3、4年生程度といわれている。幼児期より、絵本の読み聞かせで活字に興味を持たせることができず、一から自分で意欲的に習得するのであるから、個人差もあろう。高度な言葉を駆使する会話の習得には時間がかかり、子どもの負担は大きい。とりわけ、障害児同士の会話まで口話法を強制するのは、海外で出会った日本人に外国語で互いに会話させるくらい、不自然である。訓練により、意味や感情を伴わないで習得した言語では、気持ちも通じにくい。聾学校の子ども達が、手話により生き生きとコミュニケーションをとっていることを尊重するなら、口話法のみの使用には限界がある。このように口話法は豊かな語彙と思考の発達のために必要であるといいながら、生徒に豊かな語彙と思考力が伴わない場合には、質の高い授業になりにくく、手軽に説明できる手話法より劣るという矛盾がある。
◎手話法の「効果」と「限界」
補聴器の精度が向上してきたとはいえ、まだまだ耳本来の機能から比べたら性能は不十分である。そのことを踏まえて現実を考えると、聴力がより低く日本語の語彙のより乏しい子どもには、手話が望まれる。条件や環境がそろっていない現在ではむしろ、手話による授業を行うほうが、小学校の早い段階から、一般校のカリキュラムに近い内容の授業が可能である。すでに慣れ親しんだ手話を使って、理科社会、美術や体育、音楽の授業に至るまで、楽しく効率的に学ぶことができる。読唇術では、教壇から一斉授業できる人数が限られるが、手話なら、広い空間でも、多人数でも授業が可能となる。より質の高い授業を聾学校の小学部で行うなら、手話法のほうが適しているといえよう。
一方で、家庭と学校との往復のみでは社会性が育ちにくく、子供達の会話を手話に限定してしまうと、発育はさらに遅れ、進学や就職にはいっそう不利となる。手話は手軽だが、指文字でしか表せない日本語もあり、情報をすばやく伝えるには不向きである。手話と日本語は対応していないので、読み書きの習得がさらに遅れるであろうし、本より得る知識もさらに乏しくなる。また、自立活動を進めるのに必要な、5W1Hの問いの意味が理解しにくく、言葉を使って考えを深め、自分の生活や行動を振り返り、相手を思いやる心を育てることが難しくなる。
<まとめ>
このように口話法と手話法には一長一短があり、どちらかに統一する議論は、関西と関東の対立をややもすれば深めていく。賛否両論のある現在では、それ故どちらか一方に決め付けるのは現実的ではない。聴覚障害者の問題は、自己のアイデンティティを保ちながら日本社会に適応できるかという、在留外国人や帰国子女の問題と共通点があるように思う。在外邦人の保護者が、日本人学校で日本と同じ教育を受けるのを望むのと、障害児を持つ保護者が、一般校と同じ教育を受けさせたい願うのとは、同じ気持ちではなかろうか。日本社会でたくましく生きていくには“普通の子ども”を友達に持つべきだと。しかし二つの文化を行き来する子どもたちにとって、両方の文化を知っている友人との交流こそが、生活や心の支えとなる。
話を教育に限定するなら、私は、精神面の成長を期待できる、口話法を主体とした教育が正しいと思う。語学のバイリンガルの教育に当てはまることだが、どっちつかずで低い精神レベルに留まるよりは、どちらか一方で先に精神的に高いレベルに達しておくことが、両方の文化を尊重した生活を行う上で大切である。それ故、口語法にて教育を受けるのが望ましいが、かといって、手話文化を捨てる必要はないと思う。英語の学習も、文法の説明は日本語で行ったほうが理解が早いのではないか。手話で説明したほうが早く理解できる場合はどんどん活用すべきである。植民地でもあるまいし、標準日本語を強制するような、人権を奪う教育は、教育ではない。
教育とは、未来社会への効率の良い投資である。日本社会で障害者が自立することは、納税者を増やし、社会全体に利益をもたらす。寄って、他人事とは思わずに障害児をもつ親を社会全体で支え、孤立させず、障害児の自立を共にサポートしていく必要があると思う。
(2009年仏教大学教育学部講義レポートより転載)
(2009年仏教大学教育学部講義レポートより転載)
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