2011年8月15日月曜日

「特別支援教育」とは2009

「特別支援教育」とは2009


①<これまでの現状認識>
『これからの障害児教育』によると、かつての日本では、障害を持つ子どもは軍国主義教育などにより、「教育対象外」として位置づけられ、「就学猶予・免除」規定などにより、公教育から締め出されてきた。
西洋において、キリスト教の慈善活動の一環としてスタートした障害児教育は、より組織化されて「ろう学校」「盲学校」となり、フランスのセガンにより、生理学の原理を応用した重度知的障害児教育が築かれた。
明治の日本でもまた、障害者は慈善の対象であったが、盲・ろう学校の歴史は古く、早くから「点字指導・歩行訓練」「聴能訓練」等が行われていた。その他の障害児は、学力低下への対策として、特殊学級に集められた。
戦後に、障害児教育は、『生活の質』『社会的公正』という観点から、人権として捉える考え方が日本にも伝わった。デンマークの「知的障害者の生活を可能な限り通常(ノーマル)の生活状態に近づけるようにする」“ノーマライゼーション”から派生した、アメリカの“メインストリーミング”。「全ての子供のあらゆるニーズに答えていく」イギリスの“インテグレーション”から派生した“インクルージョン”の理念である。それを機に、新たに教育的な配慮の必要な児童生徒が認識され、学習指導要領が大きく改訂されている。昭和46年には、弱視児や難聴児、脳性まひ児の増加と重複児の増加を受け、障害種別に対応した教育目標が設定された。そして目標実現のために、新しく「養護・訓練」が設けられた(H11年には「自立活動」に改められた)。さらにその後、通学できない子どもには訪問教育で対応するなどの対策が取られるようになった。
H15年、文部科学省は次のように、大きく5つの課題が「特殊教育」にて「現状認識」されているとした。
(1)特殊学校や特殊学級の在籍者比率が増加し、(2)重度・重複児が増加し、通常学級におけるLD児、ADHD児等、多様化、複雑化しているため、(3)教育の専門性の向上が望まれるが、専門家や関連機関との連帯不足している。また、(4)インテグレーション(統合教育)へ転換し、(5)新たな体制やシステム構築する必要があるとしている。
<基本的方向性>
あらゆる問題を抱えた子どもを含め、全ての子供について、社会のありとあらゆるところで当たり前の平等、差異や個性の尊重を認める『インクルージョン』の理念へと転換するため、『基本的方向性』が、同じくH15年、文部科学省により公表されている。かつては、障害の程度等に応じ、障害児を隔離・保護した特別の場で指導を行う「特殊教育」であった。健常児への働きかけといかに同じにしていくか、ということを大切にし、障害のある児童生徒一人一人の教育的ニーズに応じて適切な教育的支援を行う「特別支援教育」への転換を図る。この公表に伴い、盲、ろう、養護学校、養護学級から、特別支援学校、特別支援教室という名称に変更して、これまでの障害児教育の支援内容を改正していく。
<特別支援教育の定義>
文部科学省による特別支援教育の定義は、以下のようである。「特別支援教育とは、従来の特殊教育の対象の障害だけではない。LD、ADHD、高機能自閉症を含めて障害のある児童生徒の自立や社会参加に向けて、その一人ひとりの教育的ニーズを把握して、その持てる力を高め、生活や学習上の困難を改善、又は克服するために、適切な教育や指導を通じて必要な支援を行うものである。」

②<自立活動の教育目標>
平成11年に学習指導要領が改訂され、障害者にとって受け身になりがちな「養護・訓練」が、障害者自身が主体的・積極的に取り組むべき教育活動である「自立活動」へと名称が変えられた。幼児児童生徒が、それぞれの障害の状態や発達段階などに応じて、主体的に自己の力を可能な限り発揮し、より良く生きていこうとする活動であるとされている。
この教育目標は、全ての幼児、小学校、中学校、高等学校の教育目標と同じであるが、「障害に基づく種々の困難を改善・克服するために必要な態度や、習慣などを育て、心身の調和的発達の基礎を培うこと」「児童及び生徒が困難を改善・克服するために必要な知識、技能、態度及び習慣を養うこと」という文面が付加されている点が異なっている。こうして幼稚園や保育所、及び関連機関と連帯しつつ、障害者の自立と社会参加を支援していくことが、「自立活動」の目標である。
<「教育課程編成の一般方針」>
『これからの障害児教育』によると、とりわけ知的障害児教育においては、常に自立活動と各教科との関連が大切であると、強調されている。平成11年に改定された学習指導要領は以下のように述べている。
「学校における自立活動の指導は、障害に基づく種々の困難を改善・克服し、自立し社会参加する資質を養うため、学校の教育活動全体を通じて適切に行うものとする……ここの児童又は生徒の障害の状態や発達段階等を的確に把握して、適切な指導計画の下に行うよう配慮しなければならない。」
また、平成17年度の中央審議会答申によると、障害がある子どもへの対応については、幼児段階での早期発見・早期支援が重要であることから、幼児段階における特別支援教育の推進のあり方を検討する必要性、障害者の自立と社会参加を支援する観点から、就労や就学支援を図る重要性が述べられている。真の意味での、「一人ひとりの子ども」の発達段階や発達特性に応じた教育課程の編成が求められているのである(『これからの障害児教育』より)。
<自立活動の内容>
子どもの立場に立ち、できるだけ早い時期から発達的視点より指導するために、指導内容は幼稚部から高等部まで同一であり、5つの柱から成り立っている(『これからの障害児教育』より)。(1)生活習慣を形成し、病気や損傷を理解し健康状態を維持、改善し、 (2)対人関係をうまく築き、状況の変化に対応するなど、心理的に安定すること。(3)周囲の状況を把握し、認知や行動の手がかりとなる概念を形成すること。(4)日常の姿勢や動作、移動能力を高め(歩行、乗り物の訓練)、作業を円滑に遂行すること。そして(5)コミュニケーション能力を高めること(パソコン、口話、手話など)。
こうして弱点を克服し、かつ長所をさらに伸ばし、指導方法を個々の児童または生徒について創意工夫し、他の教師や専門家と協力していくことが望ましいとされている(『これからの障害児教育』より)。効果的・効率的に実施していくために、姿勢が一貫した「個別支援計画」を策定し、具体的な内容、方法等を計画、実施、評価(Plan-Do-See)をしてよりよいものへ改善していくことが重要である(平成15年「特別支援教育のあり方に関する調査研究者会議報告」より)。

(2009年仏教大学教育学部講義レポートより転載)

視覚障害児の視覚障害の視覚障害の程度や見え方に配慮した指導法2009

視覚障害児の視覚障害の視覚障害の程度や見え方に配慮した指導法2009

<序論>
『視覚障害教育に携わる方のために』の第一章によると、視覚障害児は、伝染病や中毒、腫瘍、生まれつきまたは中途失明等により、「視力障害」「視野障害」及び「暗順応障害」が生じ、両眼の矯正視力が学習の上で支障をきたす子どもたちのことである。
視覚障害を持つ児童生徒は、大きく二つに分けられる。点字での学習が必要な「盲児」と、普通の文字を活用する「弱視児」である。盲児と弱視児とでは、指導方法は大きく異なり、同じ弱視児でも、原因が異なれば、一人一人の見え方は大きな個人差がある。近年では、視覚障害に加えて、重度の発達遅滞や、肢体不自由を伴う「重複障害児」も増加している。
世界の流れは、2つの方向に進んでいる。人権の視点より、機会や結果が平等になるよう、教育の社会的公平さが求められている「インクルージョン(包括的な統合教育)」と、個々のニーズに応じた特別支援を進める方向である。日本でも、その生徒にふさわしいカリキュラムが検討されており、知的障害を伴わない視覚障害児には一斉授業、重複障害児には一対一の授業やティームティーチングを行っている。
視覚障害児の支援は、小中高等部だけでなく、第8章にあるように、乳幼児からの早期支援が求められている。両親の心を支え、子どもの心身の発達が遅れないよう、早期より適切な支援を行うことが、その後の教育の効果を高める。一貫性のある長期の個々の支援を続けるには、高度の専門性がかかせないであろう。
<視覚障害児の指導法>
視覚障害児は、第2章p37のように視力障害の程度、失明の時期、入学の年齢、教育歴が一人一人異なり、知的障害等を伴う重複障害児も増加傾向にあり、指導法も一様ではない。教育課程の基準には、弾力性を持たせる必要がある。
視覚障害児の教科のカリキュラムは、知的障害のない場合、第6章p142のように、一般校の学習指導要領に基づき、各教科を学年別に、1年間の内容を可能な限り全て教えることになっている。ただし、障害にあわせて工夫された教材や教具を使用し、指導にはいくつかの留意点も必要である。自立活動のカリキュラムは、教科と違いメニュー方式で、学年の別は無く、自立に必要なさまざまな要素から、一人一人に応じた内容を抜き出して、カリキュラムを設定している。知的障害を伴う重複障害児には、知的障害養護学校の教科を設定する。
視覚障害児の具体的な指導法は、児童生徒が、「盲児」であるのか、それとも「弱視児」であるのかによって、大まかに分けることができる。第1章によると、盲児とは、「点字を常用し、聴覚と触覚を活用して学ぶ児童生徒」である。弱視児とは、「視力が0.3未満のもののうち、普通の文字を活用するなど、主として視覚による学習が可能な者」である。弱視の要因は、第5章によると、①ピントが合わず、屈折異常がメガネなどで矯正できない。②角膜、水晶体、硝子体などが混濁し、乱反射している。③虹彩欠損やぶどう膜炎等の眼疾。④求心性視野狭窄や網膜色素変性による暗順応の悪さ。⑤その他眼球の不随意振とう、不規則狭窄、暗点や、斜視、遠視、片目のみの使用、左右の視力の極端な差などが原因として挙げられる(『障害児の生理と病理』)。
<弱視児の指導法>
弱視児を教えるとき、第5章のように、教員はコントラストの強い色彩で板書し、適切な学用品を使用しているかどうか気をつけてやらねばならない。ノートは、線の太いものが良く、鉛筆は濃いものの方が良い。また、疲労しない工夫として、書見台、高めの机、光量を調節するブラインドやカーテンがあげられる。パソコンの画面拡大ソフトを活用したりするのもよい。
弱視の児童の中には、操作活動を重視した、物を見る訓練から必要な場合がある。見るという楽しさを体験したことのない児童から意欲を引き出し、力相応に見えるように導く。それから、多くのものから特定のものに着目し、やがてまとまりのある図形のグループ化が可能になり、物の属性の認知学習へと入る。物を形や大きさに着目し、比較、分類、順に並べる、描く、つくる、実験する、といった操作活動をいっそう進め、ついには予測能力の向上に至る。豊かな概念やイメージの形成まで、適切なステップで進ませる専門性が必要である。
<盲児の指導法>
盲児を教えるとき、第7章の製図用のコンパスのように、晴眼児用の器具を利用しても良いが、工夫された専用の教材や器具が用意されている。パソコンのスクリーンリーダーの他、レーズライターや立体コピーといった凸図の作成機、サーモフォームを使った地図、触る絵本、盲人用地球儀、文具、温度計というものもある。こうした器具を使い、第5章のように盲児を指導していく。
点字を指導するには、まず、読み取るための両指の触覚訓練が必要である。また、話し言葉を意識して書き言葉に変える作業が必要である。
空間概念は、まず上下・左右・前後の6方向を認知し、それから数学で習うような立体図形を学習していく。図形が描けるようになったら、歩行地図を理解し、作成していく。建物の1階と2階、山や橋、トンネルといった触れない空間認識を学ぶためには、模型が必要である。
自立を意識するなら、漢字の習得も重要である。点字と日本語のワープロ変換ソフトを駆使するためにも、漢字の意味や読み、部首の知識が必要である。さらに、平仮名、片仮名、漢字、数字、アルファベット交じりの文章に対応できる知識が必要である。
運動は、模倣が難しく、安全面からなかなか個人で習得しにくい分野である。2人羽織のように後ろから手を添えて動作を指導し、全力で走ったり投げたり跳んだりする体験をし、正しい歩行動作の習得も望ましい。
指導する上で、盲児に(弱視児も)いえるのは、できるだけあらかじめ、どこで何をするか学習空間を認識させ、授業の手順をつかませることである。また、見えないだけに言葉からどれほど理解できるか不透明である。話だけで理科や社会を教えがちであるが、やはり、実物や模型、標本類を利用すべきである。
第六章によると、「養護・訓練」は今では、自立活動へと平成11年より名称変更されている。教員主体の教え込みではなく、1対1のメリットである個別指導を活かし、歩行、日常生活動作、文字処理の訓練により、日常や学習活動で後天的に制限されている障害を改善していく。視覚障害児は生活に必要な、料理、裁縫ばかりでなく、仕事をし、外を出歩くのに必要な、トイレや食事のマナー、身だしなみ、音(反響音)による状況や空間の認識、お金の見分け方など、多くのことを効率よく覚える必要がある。経験不足を補うには、情報を整理する能力と、核になる本物の経験が必要だからである。
<まとめ>
初心者をプロに育成するかのようなノウハウの数々より、かつての特殊教育は、特別高度な専門性を持つ教員による教育であると思われる。特別支援に変わっても、個人差の大きい視覚障害教育にて、更なる高い専門性が望まれる。


(2009年仏教大学教育学部講義レポートより転載)

聴覚障害児に日本語の力や学力を獲得させるための「聴覚口話法」の「効果」と「限界」、ならびに「手話法」2009

聴覚障害児に日本語の力や学力を獲得させるための「聴覚口話法」の「効果」と「限界」、ならびに「手話法」2009
<序論>
『聴覚障害教育の基本と実際』によると、明治時代の聴覚障害の児童生徒に対する教育とは、それまで日常で用いられていた手話と筆談が中心で、主に私立学校にて行われていた。やがて、米国のベルによる発声法、宣教師ライシャワーとその娘の影響にて、日本でも口話中心の教育へと変遷していった。
口話法には、戦前の①「純口話法」と戦後の②「聴覚口話法」というのがある。
①「純口話法」というのは、大正時代に東京や名古屋で行われた、口話能力を高める指導法であり、「言語中心主義」「読唇中心主義」「発語中心主義」の三大方針を掲げる教育である。少人数で外国語の文法を学ぶように、繰り返し学習する。
それに対し、②「聴覚口話法」というのは、補聴器で聴覚を呼び覚まし、日本語の直接習得を図ろうというものである。文法は、会話から自然に学ぶことができる。
一方で大阪を中心に手話を併用する教育もあった。昭和4年、大阪市立聾唖学校では、聴力の程度、口話に対する適性、失聴年齢などによって、“口話中心”“手話・指文字中心”“それらの併用”グループの3つにわける、「ORAシステム」が考案された。また、近年では、口話による聴覚コミュニケーションを補う目的で、子音を手指サイン、母音を口形で示すキューサインの併用が進められているp38-39)。
<口話法と手話法との比較>
◎口話法(聴覚口話法)の「効果」と「限界」
聴覚障害による、二次的な言語・認知・社会性の遅れを防ぐためには、できるだけ早期に障害を発見し、早期に教育を開始することが必要である(p59)。出生後の早い時期に、聴覚に重度の障害を受けると、周りの人々の話し言葉を聞いて自然に日本語を習得することが困難となる。話し言葉が年齢相応に形成された上で、ようやく小学校で学習に必要な言語や、書き言葉を習得できるようになる。言語能力があまりに低いと、中学高校の高度な抽象思考へ移ることが不可能となる。聴覚障害児が日本語の基礎を形成するためには、補聴器を用いた聴覚口話法が授業で有効である。
口話法の最大の利点は、進学や就職で有利なことである。職場では良好な人間関係に不可欠な、挨拶といった基本的なマナー、円滑なコミュニケーションが求められる。手話を知らない多数の人と接するところでは、口話法が望ましい。
しかし、現実の子ども達は能力に差が大きく、中等部や高等部の生徒でも、読書力のレベルは小学校3、4年生程度といわれている。幼児期より、絵本の読み聞かせで活字に興味を持たせることができず、一から自分で意欲的に習得するのであるから、個人差もあろう。高度な言葉を駆使する会話の習得には時間がかかり、子どもの負担は大きい。とりわけ、障害児同士の会話まで口話法を強制するのは、海外で出会った日本人に外国語で互いに会話させるくらい、不自然である。訓練により、意味や感情を伴わないで習得した言語では、気持ちも通じにくい。聾学校の子ども達が、手話により生き生きとコミュニケーションをとっていることを尊重するなら、口話法のみの使用には限界がある。このように口話法は豊かな語彙と思考の発達のために必要であるといいながら、生徒に豊かな語彙と思考力が伴わない場合には、質の高い授業になりにくく、手軽に説明できる手話法より劣るという矛盾がある。
◎手話法の「効果」と「限界」
補聴器の精度が向上してきたとはいえ、まだまだ耳本来の機能から比べたら性能は不十分である。そのことを踏まえて現実を考えると、聴力がより低く日本語の語彙のより乏しい子どもには、手話が望まれる。条件や環境がそろっていない現在ではむしろ、手話による授業を行うほうが、小学校の早い段階から、一般校のカリキュラムに近い内容の授業が可能である。すでに慣れ親しんだ手話を使って、理科社会、美術や体育、音楽の授業に至るまで、楽しく効率的に学ぶことができる。読唇術では、教壇から一斉授業できる人数が限られるが、手話なら、広い空間でも、多人数でも授業が可能となる。より質の高い授業を聾学校の小学部で行うなら、手話法のほうが適しているといえよう。
一方で、家庭と学校との往復のみでは社会性が育ちにくく、子供達の会話を手話に限定してしまうと、発育はさらに遅れ、進学や就職にはいっそう不利となる。手話は手軽だが、指文字でしか表せない日本語もあり、情報をすばやく伝えるには不向きである。手話と日本語は対応していないので、読み書きの習得がさらに遅れるであろうし、本より得る知識もさらに乏しくなる。また、自立活動を進めるのに必要な、5WHの問いの意味が理解しにくく、言葉を使って考えを深め、自分の生活や行動を振り返り、相手を思いやる心を育てることが難しくなる。
<まとめ>
このように口話法と手話法には一長一短があり、どちらかに統一する議論は、関西と関東の対立をややもすれば深めていく。賛否両論のある現在では、それ故どちらか一方に決め付けるのは現実的ではない。聴覚障害者の問題は、自己のアイデンティティを保ちながら日本社会に適応できるかという、在留外国人や帰国子女の問題と共通点があるように思う。在外邦人の保護者が、日本人学校で日本と同じ教育を受けるのを望むのと、障害児を持つ保護者が、一般校と同じ教育を受けさせたい願うのとは、同じ気持ちではなかろうか。日本社会でたくましく生きていくには“普通の子ども”を友達に持つべきだと。しかし二つの文化を行き来する子どもたちにとって、両方の文化を知っている友人との交流こそが、生活や心の支えとなる。
話を教育に限定するなら、私は、精神面の成長を期待できる、口話法を主体とした教育が正しいと思う。語学のバイリンガルの教育に当てはまることだが、どっちつかずで低い精神レベルに留まるよりは、どちらか一方で先に精神的に高いレベルに達しておくことが、両方の文化を尊重した生活を行う上で大切である。それ故、口語法にて教育を受けるのが望ましいが、かといって、手話文化を捨てる必要はないと思う。英語の学習も、文法の説明は日本語で行ったほうが理解が早いのではないか。手話で説明したほうが早く理解できる場合はどんどん活用すべきである。植民地でもあるまいし、標準日本語を強制するような、人権を奪う教育は、教育ではない。
教育とは、未来社会への効率の良い投資である。日本社会で障害者が自立することは、納税者を増やし、社会全体に利益をもたらす。寄って、他人事とは思わずに障害児をもつ親を社会全体で支え、孤立させず、障害児の自立を共にサポートしていく必要があると思う。


(2009年仏教大学教育学部講義レポートより転載)

肢体不自由児教育における「自立活動」について2009

肢体不自由児教育における「自立活動」について2009
<序論>
障害児教育は、1980年のWHOの分類によると『四肢が不自由であるという機能障害を改善するというのではなく、生活や学習にともなう能力障害を改善すること』と考えることができる。さらに、2001年のICFによると、人間の生活機能(心身機能や身体構造、生活、人生)は、「健康状態」「環境因子」「個人因子」との相互関係であり、『支援により生活環境を改善して社会的不利益を減らすこと』と考えることができる。
かつて、肢体不自由児のための学校は無く、体操の時間は見学し、普通学級で授業を受けていた。昭和40年代に脳性麻痺児、昭和50年代以降に脳性疾患の増加があり、昭和54年より、重度・重複障害児を含め、肢体不自由児の教育は義務化された。MRIや遺伝子診断の発達、予防接種、酵素やホルモンの投与などの予防や治療により、減少している病種もあるが、医療ケアの必要な重度・重複障害児は増加している。
こうして盲・聾学校よりも歴史の浅い養護学校にて、今日あらゆる支援学校や一般校の参考となる『脳損傷に起因する諸特性をふまえた指導』法が、培われてきた。インクルージョンの理念より、世界は今、全ての子供がありとあらゆる分野でチャンスや結果が平等に訪れる、人権に裏打ちされた「社会的公平さ」が求められている。養護・訓練は、生活重視の自立活動となり、生きる力をはぐくむ教育が求められている。
<脳性麻痺児の定義と特性>
在学児童生徒の45%を占める「脳性麻痺」の狭義の定義は、「受胎から新生児期までに生じた脳の非進行性病変に基づく永続的なしかし変化しうる運動および姿勢の異常」である。運動機能障害他の合併障害を持ちやすく、麻痺の原因が未熟児による場合は学習障害である「視知覚認知障害」、また原因が低酸素脳症の場合、筋の緊張が安定せず、座位が困難、嚥下や構音の障害が見られる。これらの障害の結果、座位が取れず、手で物をつかんだり物を見下ろしたり探索といった、様々な体験が乳幼児期に不足する。こうして試行錯誤や推理する経験が不足し、認知やコミュニケーションの二次的障害を生じる。そして、発達の遅れより学力や社会性の低下につながりやすい。
<脳性麻痺児の指導計画の立て方>
知的障害がない軽度の肢体不自由児の場合、周囲の自立の期待は大きい。しかし、特別支援教育の自立活動では、たとえ重度の障害があろうと、少しでも能力が改善し生活しやすくなるよう、肢体不自由児の希望に沿った、個別の支援計画をたてる事、自分の事を自分でしたいという自発的な動機付けが求められている。
指導と評価の一体化を進めるPlan-Do-Seeのシステムは、以下のように行う。まず初めに計画を立てるには、脳性疾患(脳性麻痺を含む)にかかわる医学的、心理的な基礎知識を得て、学習特性を理解する。そして一人ひとりの障害の状態及びニーズの把握を行い、ニーズに応じて個別の支援計画を立てる。長田・安藤のアウトラインによると、1年間の指導期間であっても、一人ひとりの成長に合わせ、小学部から高等部までの長期的な展望に立った個別計画をまず作成する。各教科や自立活動まで含めた、学校の教育活動全体を見通した指導計画を作成する。病院のカルテのような、誰が見てもその子の経過や現状が分かるような個別のカードを作成する。担任が以前の園や学校からの資料、保護者や多くの教師の情報を収集する。
これらのカードや会議を元に、各担当者が授業計画を立てる。TTを利用し、子どもによって必要な教材を選び、教科を再編し、限られた授業時間内で何を重点的に学ぶのかを工夫する。その子に応じた学び方(スタイル)が決まったら、次に評価の基準を決め、どの程度到達したか個別に明確に記す。観点はぼやけないよう1授業につき1~2つにしぼり、簡便化する。評価が出たら、多くの教員、保護者の協力のもと、授業計画を再検討し、新たな計画を元に進めていく。
<自立活動の内容>
自立活動も前述のように、長期計画に基づいて1年間の活動計画を立てる。将来、社会人として自立していくのに必要な生きる力を身につけるため、主体性や社会性を培い、生活を改善していく。
自分にとって何が必要か、課題を見つけて工夫してこなすことも自立活動である。ベッドから車椅子へ、車椅子から杖歩行へ、アスリートのように感覚を鍛え、筋肉をつけ、ステップを踏んでトレーニングを積む。あるいは歯磨きが課題かもしれない。電車やバスに乗る練習、スーパーやコンビニの利用かもしれない。指一本で動かせる車椅子やパソコンがある時代である。改造自動車のマイカーで通勤し、パソコンで仕事することも可能になってきている。時間をかけたらできることを、他人に頼らずにやってみるというチャレンジ精神を育てることは、大切である。
授業案として以下の易、中、難の具体例を挙げる。
◎体でじゃんけん……できる動作3つでグーチョキパーを決めて遊ぶ。係や順番を決めるときに利用しても良い。感覚、筋力を鍛え、体をしなやかにする。
◎トランシーバーで探検ごっこ……指令本部と探検隊にわかれ、無線で連絡を取りながら、暗号を集めて解く。道順を分かりやすく伝える、相手の言葉から地図を想像する、コミュニケーションや空間認識の訓練。校外を含めると、難易度が上がる。
◎買い物の仕方……公共機関を利用してスーパーに行き、メモを頼りに店内を捜し、時には店員に尋ね、レジで支払いをして帰る。仮に自分一人でできなくても、班で協力し合う体験、社会の仕組みを考える大切な体験になる。
<自立活動の注意点、今後の課題>
自立活動を進める上で気をつけないといけないのは、障害の悪化と安全である。長い目で見てその人の利益になるようにしなければならない。例えば杖で歩く訓練は重要であるが、無理な姿勢で歩くことで生じる、関節への負担は大きい。首や腰を痛め、早く老化する可能性がある。何が何でも歩くというのではなく、時には車椅子や公共機関を利用する、エレベータやエスカレータを利用するなど、自分の行動の限界を自覚し、無理をしすぎないことも、自立には必要である。
また、電動車椅子は、障害物にも凶器にもなり得る。自分や他人の命を守るために、町に出たときのマナーやルールはきちんと理解しなければならない。例えば、歩道の中央をスピードを出して歩く、横断するときによく見える車道に出て待機するなど、歩行者や自転車、バイクや自動車の通行を妨げるのは危険である。歩道の歩き方、道の横断の仕方は、社会に出てからやみくもに場数を踏んで自然に覚えるのではなく、授業で教師がきちんと説明してやるほうが良い。
知り合いで、若い女性に介護されていた50代の男性が、一人暮らし始めて同世代の飲み友達を見つけた後、おねえ言葉から普通の“おじさん”へ変身した。施設にいては限界がある。自立は、一人暮らしし社会にでて徐々に、真に自立するものであると感じた。卒業後に、速やかに自立できる支援が学校に望まれる。


(2009年仏教大学教育学部講義レポートより転載)

脳性麻痺の定義・分類・原因・かかわり方2009

脳性麻痺の定義・分類・原因・かかわり方2009
<脳性麻痺の定義>
受胎から新生児(生後4週間以内)までの間に生じた、脳の非進行性病変に基づく、永続的なしかし変化しうる運動及び姿勢の異常である。その症状は満2歳までに発現する。進行性疾患や一過性運動障害また将来正常化すると思われる運動発達遅延は排除する。
ただし、生後4週間を過ぎて、3歳くらいまで脳は大きく発達するため、この時期に脳にダメージを受けると脳性麻痺に近い状態となる可能性がある。
また、麻痺の程度と本人が不自由に感じる程度は一致せず、麻痺の程度と知能指数も相関はない。麻痺の原因や合併症など、個々のケースについて個別に対応しなくてはならない。
<脳性麻痺の分類>
筋緊張による分類には、痙直型、アテトーゼ型、失調型、強調型、混合型の五種類がある。痙直型は、全身に強い筋緊張があり(伸展反射)思うように体が動かせない。原因により、精神発達も様々。アテトーゼ型は、不随意運動により思うように体が動かせず(本人の意図に反する)、姿勢が定まらない。失調型は、平衡感覚、協応動作(コンビネーション)の障害で、歩行が不安定。強調型は、強い筋緊張で痙直型とは異なり、屈曲も伸展も同じ程度の抵抗がある。混合型では、アテトーゼの不随意運動と痙直の強い筋緊張の両方を示し、最も多いタイプである。
麻痺している肢体の部位による分類には、四肢麻痺(両麻痺の重症型)、両麻痺(早産児に多く、精神発達遅滞を伴う)、片麻痺(脳性麻痺に多く、歩行可能)、重複片麻痺(四肢)、単麻痺(一肢のみ)、対麻痺(下肢のみ)がある。
脳性麻痺の原因
出生前、周産期、出生後の3つにわかれる。出生前には、流感、風疹、HIV、ヘルペス、淋病、梅毒、トキソプラズマなどによる胎内感染、母体の貧血症などによる酸素不足、妊娠中毒、母体や胎児の栄養失調、多胎妊娠、母胎の外傷、体内期内出血、染色体異常、代謝異常、ニコチン、アルコール、麻薬、有機水銀、放射線被曝、血液型不適合妊娠。周産期には、切迫仮死による胎児無酸素症、新生児仮死等による酸素欠乏、鉗子分娩による脳の外傷、核黄疸、頭蓋内出血、逆子、分娩期間の遅延。出生後には、脳炎、髄膜炎、硬膜下血腫、脳梗塞、頭部外傷、低酸素血症、一酸化炭素中毒、溺水、薬物中毒などがある。
<脳性麻痺の関わり方>
動作訓練法とは、意図したとおりの身体運動をする訓練である。①弛緩訓練は、緊張と弛緩の違いを体で覚える。今現在、力が入っているか、抜けているか、そばで口で教えてやる。②単位動作訓練では、一つの関節を中心とする、一方向の動き。スモールステップで学習していく。③基本動作訓練では、座位、膝立ち位、立位、歩行、書字、発声などを訓練する。例えば、座位では、座位の姿勢を妨げる筋肉の弛緩訓練が必要であり、ダンスのバレエやスポーツの訓練のように、柔軟体操やきれいな姿勢を矯正していく。
脳性麻痺児への関わり方は、その後、他の障害児に活かされている。脳性麻痺児で始まった「動作訓練法」は、「動作法」「臨床動作法」へ応用され、多動児や自閉症児、重症心身障害児、神経障害児、神経症の患者の訓練や心理療法へと発展している。障害の有無に限らず、楽ばかりしてはためにならず、厳しいしつけや指導はその子の成長を促すのではないかと思う。


(2009年仏教大学教育学部講義レポートより転載)

てんかんの定義・症状・診断・原因・治療および教育的対応2009

てんかんの定義・症状・診断・原因・治療および教育的対応2009
<てんかんの定義>
WHO(世界保健機構)は、「てんかん」を「種々の成因によってもたらされる慢性脳疾患で、大脳ニューロンの過度の発射から由来する反復性の発作を主徴とし、それに変異に富んだ臨床及び検査所見表出が伴う。ただし、脳腫瘍などの、脳占拠病変や系統的代謝障害による疾患は除外する」としている。
<てんかんの原因>
胎生期および周産期の脳疾患(脳炎や脳症、脳奇形、脳血管障害、髄膜炎)、脳外傷などが原因である。「特発性」「症候性」「潜在性」とがあり、「特発性」は、てんかんのみを持ち、遺伝的要因などを含んでおり、気質的異常を持たない。「症候性」は出産後のあらゆる時期の脳疾患や事故が原因である。「潜因性」は病気を特定できない。
<てんかんの症状>
①意識の有無②けいれんの有無③けいれんの場所④けいれんの順⑤発作の期間⑥発作後の様子⑦発作の頻度において、様々なバリエーションがある。
(1)強直―間代発作(大発作)
前駆症状:数日~数時間前より頭痛、不安、不機嫌などの症状が見られる。
けいれん発作:意識消失とともに運動を停止し、強張りと弛緩をくりかえす。眼球上転や叫声がみられることもある。筋収縮の間隔は伸びていく。
発作後期:睡眠又はもうろう状態。数分間深い眠りのこともある。
(2)欠神発作(小発作)
単純欠神発作と他の症状を伴う複雑欠神発作とがある。
(3)汎ミオクロニー発作
(4)点頭発作
(5)脱力発作
(6)その他
身体の一部か、一部から始まり前進へ移る発作(焦点運動発作、偏向発作)。
(7)小児に特有なてんかん症候群
(ウエスト症候群、レンノックス・ガストー症候群、良性ローランドてんかん)
<てんかんの診断>
脳波、ビデオ脳波同時記録、頭部MRI、頭部CT、脳血流SPECT、脳磁図を用いる。
<てんかんの治療>
薬物療法では、てんかん発作の閾値を下げて、発作を起こしにくくする。発作型や脳波を考慮して、薬剤が選択される。外科治療では、大脳皮質の特定部位を切除するか、または5mm程度ごとに脳表に切込みを入れる。
<てんかんの教育的対応>
生徒がてんかんの発作を教室で起こした場合は、発作中に頭部を保護する他、発作を正確に観察するなど、冷静な対応が求められている。
てんかんの子どもに対して、基本的には他の子と同じように扱う。水泳中など特別な場合を除き、命に危険が直ちに及ぶことはないので、落ち着いて対処する。5分以内に痙攣がとまらなければ、救急車を呼ぶ。周囲の子どもには、「痙攣の発作で、まもなく元に戻って元気になるから心配しなくていいよ」と伝える。急な発作により、周囲の子どもが偏見を持ったり、あるいは怖がらないような配慮が求められると思う。


(2009年仏教大学教育学部講義レポートより転載)

知的障害児が被る社会的不利2009

知的障害児が被る社会的不利2009
<序論>
知的障害の原因は、遺伝子の異常や中毒、感染、外傷などがあるが、4分の3が現代医学では特定できないと言われている。また教育的・文化的環境に恵まれない場合にも、精神発達は遅滞するといわれている。現在の日本では、知的障害者を“発達の遅れ”とし、脳髄に何らかの障害(器質的障害)を持つことが要件に挙げられている。これに対し、アメリカ精神遅滞学会AAMDでは、「全般的知的機能が有意(危険率5%未満)に低く、適応行動の障害を伴っており、かつ18歳以下に現れる」とし、脳の器質的障害については定義に含めず、3つの領域のうちの2つ以上が制約を受ける“特定の機能障害”としてとらえられている。3つの領域のうち1つは、言語、読み書き、金銭の概念、自己管理といった概念スキル、2つ目は対人関係、責任、自尊心、規律を守るといった社会的スキル、3つ目は、日常生活活動、職業スキル、安全な環境の維持と言った実用スキルである。
<知的障害児の学習の特性>
知的障害児は、抽象化、一般化の思考が劣るとともに、他人の言動を理解し、自他の関係を調整していくことに困難がある。例えば、短期記憶の障害のために、諸経験事象間に連続性が見られず、学習行動上の障害をひきおこすとされる(長い会話の最初の内容を、会話の最後の方で忘れるために、複雑な思考が妨げられているのではないか?)。これらの知能や概念形成面での発達特性の他に、体格や運動機能面においても遅れの状態を示す。また、性格・行動面においては、好奇心の乏しさ、不活発で無気力、自身欠如、首尾一貫しない言動、衝動的行為、感情の不安定、仲間との交流の欠如などの特徴が見られる。ただし、ボーダ-ライン付近の子どもの場合、知的障害のあるなしの区別は一般的に難しく、知能テストの方法や統計処理の仕方によって、新たな障害児が発生することもあると念頭に入れねばならない。
脳の心理機能を入力、処理、出力の3つに括ってとらえると、知的障害児は、記憶容量(ワーキングメモリ)が低いために入力→処理→出力の操作である記憶の「固定」や「再生」が苦手である。また、注意持続時間や選択的注意時間が短く、ながら作業を苦手としている(記憶保持時間が短いために、脳の一時記憶の部分を、分割使用しにくいと思われる)。
とりわけ、複雑図形の模写と再生、物のグループ化、順番並べ、数と量の概念などを苦手としているが、これも記憶容量に負荷がかかりすぎるためであり、例えば単純に数のカウントはできても、事物を数えながら取り出すといったことが苦手である(取り出している間に忘れる、あるいは、そのカウントが取り出す前の数値か、あとの数値かの記憶を保持できないと思われる)。
これらの苦手を本人はかなり意識しており、多くの失敗の経験のため、無力感を感じてしまっている。どうせ自分はと過小評価したり、逆にいや自分は何でもできると強がって、投げやりに何でもやろうとしてしまう。
また、認知や学習課題は、外部の大人の教示や態度などを手がかりに行おうとする。そして、問題解決そのものに喜びを見出すのではなく、周囲の反応や外的な報酬を期待する。このような傾向は施設の子どもに顕著である。施設では、大人に何度も無視をされるため、初対面の大人には心許さず用心深く、なれた大人には媚びて過度に依存する。こうした傾向は一次的な障害ではなく、二次的に形成されたものである。
<障害の定義>
WHO(世界保健機関)の国際障害分類によると、障害は3つの次元にとらえられる。一次的な「機能・形態障害」、二次的な「能力障害」、三次的な「社会的不利」で、構造的にとらえられている。2001年のICFによると、人間の生活機能(心身機能や身体構造、生活、人生)は、「健康状態」「環境因子」「個人因子」との相互関係であるという。生活機能のうちの心身機能(生理的)と身体機能(解剖学的)機能の障害とし、背景として環境因子(「物理的環境」「社会的環境」「人々の社会的な態度」)からの作用を考えている。生活機能の障害は、否定的に見ず、プラス面より見るようにして環境からの働きかけを考慮している。つまり、環境因子が阻害因子として働く“障害”を取り除く、『支援により生活環境を改善して社会的不利益を減らすこと』のような教育が望まれる。
<知的障害児を取り巻く周囲の反応>
状況に応じて相手にあわせていったり、ごまかしたり、要領よく立ち回れない知的障害児は、なんらかの誤解が生じたとき、自分の行動や感情を分かりやすく周囲に説明することが苦手である。悪く受け取られたままずるずると悪循環に陥っていくと思われる。
新奇な刺激に対して動機付けが低く、反応が意図と異なる場合があり、理解していないとか態度がおかしいと誤解される可能性がある。この子はこんな程度とあきらめ、障害のために運動や学習が伸びないと周囲が思いこむと、できることまで本当にできなくなってしまうと思われる。日常と異なるスケジュールに適応が難しい自閉症は、自我形成の障害である。例えば大人が抱き上げようと手を伸ばしたとき、自分の体を客観的にとらえられないうえに相手の意図がわからず、自閉症の子どもは抱いてもらおうと身構えることができない。また、ごっこ遊びができず、遊んでいても現実の世界と密着している。このような子どもを見たとき、周囲の人は、自己中心的だとか、他人とかかわりたがらないとか、自分と相手との関係が混乱しているかのように見える。
軽度の知的障害の場合、こうした周囲の状況がストレスとなって、問題行動へとつながる。周囲は、こどもが意図を汲んだり、変更に対応できないことが理解できず、趣味の偏りであるとか、ストレスによる問題行動であるとか、目立つ行動にばかり目を奪われ、社会に参加するための支援が得にくい。
重度の知的障害の場合は、大人の側が積極的にコミュニケーションを図らなければ、伝達意思がないと判断されてしまいがちである。さらに、感情までないと誤解され、心ない態度やことばを投げられることもある。
<解決方法>
知的障害児は、記憶の仕方や取り出し方が苦手であるので、記憶の仕方を教えてやり、視知覚能力に合わせた課題を反復し、繰り返し思い出すリハーサル方略が効果的である。また、問題行動を軽減する機能的コミュニケーションや、予め分類訓練をしてから、複数の手がかりを元に同時に処理を行う作業を行うなど、ウォーミングアップも大切である。声に出しながら行動するのもよい。
言葉を学ぶときは、英語の学習を思い出してみるとよい。「Hou are you?」「I am fain.」のような決まったせりふの繰り返し。「This is a pen.」「I play piano.」のような使いやすいパターンの構文から学んだはずである。決まった挨拶のせりふを毎日繰り返し、コミュニケーションのきっかけを与え、相互交渉を促進させるとよい。日本語も使用し易いパターンの構文から入る。「 ~がある」「 ~を~する」といった構文が望ましい。障害のあらわれ方は様々であり、個人差が激しいので一律に論じることはできないが、教科書にあるように、一時的な障害の側面よりも、二次的に派生する発達障害の諸側面のほうを重点的に改善する教育のほうが効果があり、考慮すべきであると思う。


(2009年仏教大学教育学部講義レポートより転載)