2003年にP.F.ドラッガーの『ポスト資本主義社会(ダイヤモンド社)』にて、21世紀の日本におけるリーダー論、マネジメント論を読み、2004年に『ジーコのリーダー論(ごま書房)』で、チームワークを育てるリーダーのあり方について読んだ。
ドラッガーについては、すでに多くの方が取り上げており、いまさらここで詳しく述べることもないが、『ポスト資本主義社会』に限定すると、大規模な軍隊のように上司が大勢の部下に「指令」するのではなく、21世紀の組織では、いろいろなテクニックを持った「知識専門家」が集まったチーム(組織)があり、リーダーはそのオーケストラや「指揮者」であるという。そして、ゆくゆくは指揮者のいないジャズバンドのように、リーダー無しで機能する高度な連係プレーの小集団になるという。
ジーコは、「個性(おのおのが得意な個人プレー)を発揮」し、しかも「チームワーク(欲張らず自分の仕事はきちんとし、チームのチャンスの芽を摘まない)」を基本に置いた選手、つまり、「チームのために自分は何ができ、何をすべきか」というチームの貢献を、常に考えて走る選手を育てるのが、リーダーであるという。
選手に信頼されるための実績はもちろん、高度な技術を教えるばかりでなく、選手の身体作り、体調や怪我、(個人的には、膝の故障の予防について、とても参考になった)についてもアドバイスする。そして、選手が能力を発揮しやすいよう、環境を整え、「リーダーと部下の双方からのコミュニケーション」を意識するという。つまり、部下を一方的に叱るのではなく、注意しているときに、チーム全体が作戦やポジションについて自分の意見を述べ、討論させるという。
両者共に、リーダーとは、明確なビジョンつまり共通の目的や使命、成果を持って組織を率いると定義している。ドラッガーはサッカーの監督業もオーケストラの指揮者はと同じ系列であるとしていることから、もしかすると、ジーコ自身、ドラッガーを読んで影響を受けていたのかもしれない。
では、教師は生徒に対しリーダーシップをとるコーチ兼マネージャーか。
時代と共に、教師に期待される内容が変わってきているが、それは、授業の中身の変遷ばかりではなく、時代が、リーダーやマネジメントに求める中身が変わってきたためであろう。
インターネットでリーダー(先導者)とマネージャー(管理者)を検索すると、役割が明確に分かれていない。というのも、業種により、あるいは時代により、マネージャーがリーダーを兼任していたり、マネージャーが現場のリーダーに指示していたりするからである。さらに、コーチ(指導者)とは、クラブを引っ張るリーダーであり、高度な技術を教えるテクニックをもつ技術職、さらに「高潔な人格」で人望があり、目標を設定して達成感をあたえ、自身とモチベーションを引き出し、成長を促すとあり、リーダーの一種である。
例えば、ちょっとややこしいが、病院職員全体の、または医療スタッフ全体のマネージャーである医師は、治療の方針を立てるマネジメントを行いながら、治療そのもののリーダーとなる。患者にコーチはしない。
看護師はかつてのような「医者の部下」ではなく、医師の医療計画にそって、患者をマネジメント(管理)する、看護という現場のリーダーとなる。PTやOTもしかり。しかし、看護師と違い、PTやOTは患者にとって療法のコーチである。
教師は、教科では強いリーダーシップを求められ、クラブでは高いコーチ技術を求められ、学級では運営のマネジメント能力(事務処理能力)を求められている。しかし、教科でもクラブでも学級でも、「高潔なリーダー」であることが期待され、しかも、知識技能はもちろん、高いコミュニケーション能力が求められている。
養護教諭や実習助手は、生徒の健康管理、実験実習のマネジメントを行うが、強いリーダーシップを求められることはない。医療現場で言う、看護師やPT、OTに近いが、クラブの顧問を兼任すると、コーチ技術やリーダーシップも必要である。
教頭は教員のマネジメント能力を、校長は学校のマネジメント能力を問われ、明治、大正、昭和の時代の管理職のイメージ、軍隊の大将のようなイメージからずいぶんと変わってきている。
これら、医師も教師(監督)も、一方通行ならコミュニケーション能力はさほど要らない。しかし、より望ましい、患者や生徒、教頭なら先生(監督なら選手)に好かれる医師や教師(監督)であるためには、患者の状態や病名を正確に知るために、または生徒の状態や学習レベルを知るために、双方向のコミュニケーション能力がかかせない。そして、患者も生徒も保護者も、よりよい医療や教育のために、彼ら本来の知識技能だけでなく、自分の状況や考えを聞いてくれる医師や教師(監督)を望む傾向にある。
近年、患者や生徒、保護者の欲求が高く、理想と現実に押しつぶされていく医師や教師が増加している。患者や生徒の希望にはきりがなく、医師や教師には時間の制約が付きまとう。何のための医療であり教育であるか。個々のよりよい生活のため、正しく評価され、それを元に改善されることにある。患者や生徒、保護者は「理想とするよりよい生活」が現代社会では一人一人異なる。そして、それを得るための情報が多すぎて、あるいは正確な情報が少なすぎて取捨選択できずにいる。医師や教師から得られる、多くの正しい情報に飢えており、その中から個人の生活にマッチしたものを選ぼうと期待している。
医師や教師は、現場では強烈なカリスマで先導するリーダーでありながら、話し合いの場では、中立な立場を保ちながら患者や家族、生徒や保護者、他のスタッフとの調整役を行う「ファシリテイター」であるべきである。そこが、民間企業の経営者や管理者のマネジメントとは異なるところであると思う。
仕事の何を優先し、何を取捨選択するか。教師は担任業を事務職と割り切り、専門教科にて生徒の評価が、授業改善にきちんといかされているのか。評価や業務について、古い慣習にとらわれず、再考する必要があろう。
常に中立な立場を維持するためには、ときには現場を離れ、研修等で目下の課題をつきはなす期間が必要である。かつては、教師には夏季にまとまった休暇があり、多くの教師の自らの研鑽、教養を高める期間となっていた。しかし、多くの企業と同じく、多くの公務員に給与に見合う成果が期待されるに連れて、教員も時間に拘束されることが増えた。
医師も教師も、能力を発揮するための環境が必要だ。
話は変わるが、農業には、工場労働のような8時間労働が似合わない。というのも、天候や病害虫に作業が左右され、時期によって濃淡ができる。やろうと思えばいくらでもやる仕事がある。医療も教育も、農業に近い。人は生き物であり、治療や教育にここまででよいという限界はなく、いくらでもやるべきことがある。そして、人は生き物であり、人生の嵐やアクシデントにさらされ、患者や生徒本人も、家族も、医師や教師も計画通りにうまくいくことはまずない。医師は10時間以上に及ぶ手術を行うこともあれば、休日に患者の様態が急変して呼び出されることもある。そして、それは教師も同様である。帰宅後も、休日も、実は自宅待機に等しい。
生徒の能力が最大限発揮できる環境が、必要である。それは安全な校舎であるが、いれものではない。環境をつくるのは人間である。
教師の能力が最大限発揮できる環境が、生徒のためには必要である。それには、管理職の能力が最大限発揮できる環境が必要である。
生徒や保護者、管理職は、現場の教師の能力が発揮できるよう、教師は生徒や保護者、管理職の能力が発揮できるよう、双方が意識改革して、より能力を発揮できる環境づくりに努めるべきである。
それには、お互いの立場を理解しあえるような、前向きな建設的な話し合いの場が必要である。すでにある、行事や面談で、可能であれば望ましい。
まずは、互いの意見を述べたり、あるいは過去の失敗談をマイナス評価とする医療現場や教育現場の風通しを浴することが先決であろう。失敗を成功に生かすプラス思考こそ、21世紀のリーダー、マネジメントに求められているのである。