2011年4月10日日曜日

子ども達は、何に苦しんでいるのか

なぜ子どもはきれるのか

子どもの性格ではなく、ストレス社会、ゆがんだ食生活のせいだと思う。
朝食抜きの子どもの中に、勉強に集中できない、いらいら切れやすい子が多いように思う。

そして、子どもは社会の鏡である。
切れる大人を見て、子どもはこんなストレスの表し方もあるのかと学習する。
ストレスがたまったら、どのように心を正して処理するか、大人がよき手本を示さねばならない。



なぜ、子どもはいじめをするのか

快か不快か、ゲームを通じてコミュニケーションを学ぶ子ども達にとって、
いじめによって得られた快感を、理性によってとめることが困難である。
受動的なテレビのいじめいじくりコント、戦闘殺戮中心のボタンアクションゲームの時間の方が、
人間同士のコミュニケーションの時間より長いため、よき経験がこれらに上書きされていく。

また、探偵ごっこや、鬼ごっこのような、役割を順番に変える遊びの少なさから、
だれかが泥棒役や鬼になれば、そのまま泥棒役や鬼の役のまま、役割が固定されている。
社会のシュミレーション不足である。
昔ながらの年齢混在の群れを擬似的につくるか、英会話を学ぶように、うつくしい日本語会話を丸暗記するような授業が幼稚園から小学校低学年のうちに望まれる。

また、子ども達は、保育園、幼稚園、地域や家庭で、大人同士の醜いいじめを見続けている。
どのようにやれば、効果的に嫌がらせが出来るか、子ども達は小学校に上がる前に、
高度な社交性、テクニックを得てしまっている。
まず、大人が変わらねばならない。
それには、よき大人を作る、中高生の教育にかかっている。



なぜ、茶髪や服装の規定に反発するのか

幼少時から、大人顔負けのデザインの服と、髪型をしてきている子ども達にとって、
中高生の制服は、退行である。
なぜ、校則を守らねばならないかというのは、彼らの哲学との戦いである。

校則は地域の歴史を背負って生まれてきたもので、
一度決めると、なかなか、こまめに変える訳に行かないものである。
それ故、校則は、昨日今日の流行にしょっちゅう左右されないこと、
自分の主義主張と考えが違うからといって、
ルールを破るのはよくないことを、子ども達にきちんと伝えることが必要だ。

理想の生徒は、自ら、中高生に適した服装を選び取り、
学校では、清潔で不快感を伴わない、学習や運動に適した服装、
自宅では、身体を締め付けない、くだけた自由な服装、
アルバイトでは、サークルではと、自ら着替えていく生徒である。
しかし、最近の不況で、着替えたくても、着の身着のままの子どももいる。
制服とは本来、着替えのアイテムが少ない貧しい子どもでも、
堂々と通学できるために生まれた、機能的で、冠婚葬祭にも使える公的な服装である。

お金があり、もっと個性的で高価な髪型や服を楽しみたい生徒には、
学校は高卒の資格をとり、勉強をするのが第一の目的であり、
生徒は今だけ働くのを免除されているに過ぎない。
その生徒が、他の生徒のねたみやひがみにつながる、
服装や髪型にお金をかけすぎてはいけない。
社会人になってから、自分のお金でするように諭すべきである。

制服について、多くの保護者や生徒の意見を反映すべきであるが、
誰の何の目的化も、考えねばならない。
決して、教師が生徒を管理、拘束するためのものではないのだ。

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