「読める英語」「話せる英語」「書ける英語」について。
社会人になって、どんなときにどんな英語が必要か、身につまされてみると、
かつての日本の英語教育は、大学では役に立ち、決して無駄ではなかった。
そして、欲を言えばもう少し、効率よく学べて、書いて話せたらと思う。
まず、「読める英語」に求められているレベルはどこまでか。
大学で学ぶためには、過去の文献や英文学の古典に親しむ文法理解力が必要である。
かつての日本の英語教育は、文献読解においては、優れていたと実感している。
ただ、この、日本語で言う「古文」のような硬いイギリス英語を全員が書ける必要があるかどうかは、別問題であろう。
今、近代アメリカ英語で自分の論文を書くならば、高校3年間で学ぶべきは、
近代アメリカ英語で書く文法能力と、古典英語の読解能力である。
そして、ゆくゆくは、e-mailやチャットで使われている、くだけた口語調の英語が読み書きできるようになれば、日本の読み書き英語力も、国際人レベルとなるだろう。
中学レベルで最低限求められているのは、
氏名や個人情報に関する単語の読み書きであろう。
海外旅行において出入国カードの記載や、
現地で危険を喚起する看板が認識できるかではなかろうか。
そして、日本語と語順の違うこと、
過去、現在、未来といった基本的な文法の理解とすすんで、
文章を語順のまま読んで、そのまま、
日本語に置き換えなくても頭でイメージできるようになれれば、より望ましい。
「話せる英語」は、まず、話す中身を充実させることが大切である。
日本文化について、あるいは自分について、自分の意見を持つことから始めねばならない。
それは、母語である日本語能力の充実にかかっている。
幼稚園や小学校低学年では、異文化に触れるという経験が望ましい。
小学校高学年では、簡単なアルファベットや発音記号にとどめ、
耳から聞くことにより、単語量を増やしておく方が望ましい。
そして、聞き忘れたときに、メモを取りたいと子どもが望めば、
そのときに、記憶の手がかりとなるスペルを、任意で教え、
単語書き取りテストを強要すべきではない。
メモを取っているうちに、「f」と「ph」は同じフという音だなあと、
法則性を感じてきたら、必要に応じて、発音記号とスペルを対応させていく。
実際に「書ける英語」は中学生からでも遅くはない。
簡単な文法のうちに、自由な発想の作文力をつけるべきである。
そのためには、
中学校3年間で、自発的に単語量を伸ばしていくことが望ましい。
水泳やピアノ、そろばんの級のように、学校ごとに単語量テストで級を作ってもよい。
3年間でここまででよいというルールは、
教師側にあっても、生徒の足かせではないのだ。
なにをどうテストし、最低限求めるか、評価やテストしだいであろう。
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