2011年4月15日金曜日

目指すべき教師像について思う

人類は有史以来、その民族の文化を伝えるのが教育であり、小さい頃に受けた教育は、死ぬまでその人の人生に係わる。生きるという事は、学ぶ事である。教科の枠にとらわれず、子ども達の人生を見据えた、長期的展望に立った教育を行うのが理想の教師像である。
日頃、授業やテストでは、長い文章を書かせるように心がけている。そして、なぜその分野を学び、どう将来生かしていくのかを提起し、学ぶ意欲を掻き立てる努力を行って来た。授業中に気軽に質問できる雰囲気作りを心がけている。机の巡回を出来るだけ行い、生徒の目線に立った授業でかつ、一人の人間として接するよう心がけている。生徒も一人ひとり違えば同じく、保護者の方々も経験や理想の教育と言うものが個々に存在する。まず、話し合いにより共有する部分を確認し、方針の異なる場合には、学校単位で話し合えるような、民主的な学校が理想である。さらに得てきた経験やノウハウを後輩の教師に伝え、先輩や管理職の仕事をささえていける、余裕のある教師が望ましい。
子ども達には、少なくとも3つのことを伝えたい。まず、生命の大切さや不思議さである。一人の人間の誕生には、数々の偶然と、生命誕生からの進化の歴史が刻まれている事。自分の価値に気付き、自分を大切にすることで、他人をも思いやる大切さを伝えたい。2つ目は、生態系についてである。人間及び社会の何気ない活動が、環境に与えうる多大な影響について、説明したい。3つ目は、多様な価値観である。家庭には家庭の、地域には地域のルールがあり、尊重すべきことは大切であるが、日本には、世界には多様な価値観というものが存在することを、身をもって伝えたい。
さりげなく物事のとらえ方、価値観が身についている生徒が育って欲しい。その人の知識となり、生き方に多少影響を与えている、そんな教え方の出来る教師が、自分の目指す教師像である。

日本の英語教育について思う

「読める英語」「話せる英語」「書ける英語」について。

社会人になって、どんなときにどんな英語が必要か、身につまされてみると、
かつての日本の英語教育は、大学では役に立ち、決して無駄ではなかった。
そして、欲を言えばもう少し、効率よく学べて、書いて話せたらと思う。

まず、「読める英語」に求められているレベルはどこまでか。
大学で学ぶためには、過去の文献や英文学の古典に親しむ文法理解力が必要である。
かつての日本の英語教育は、文献読解においては、優れていたと実感している。
ただ、この、日本語で言う「古文」のような硬いイギリス英語を全員が書ける必要があるかどうかは、別問題であろう。

今、近代アメリカ英語で自分の論文を書くならば、高校3年間で学ぶべきは、
近代アメリカ英語で書く文法能力と、古典英語の読解能力である。
そして、ゆくゆくは、e-mailやチャットで使われている、くだけた口語調の英語が読み書きできるようになれば、日本の読み書き英語力も、国際人レベルとなるだろう。

中学レベルで最低限求められているのは、
氏名や個人情報に関する単語の読み書きであろう。
海外旅行において出入国カードの記載や、
現地で危険を喚起する看板が認識できるかではなかろうか。
そして、日本語と語順の違うこと、
過去、現在、未来といった基本的な文法の理解とすすんで、
文章を語順のまま読んで、そのまま、
日本語に置き換えなくても頭でイメージできるようになれれば、より望ましい。



「話せる英語」は、まず、話す中身を充実させることが大切である。
日本文化について、あるいは自分について、自分の意見を持つことから始めねばならない。
それは、母語である日本語能力の充実にかかっている。

幼稚園や小学校低学年では、異文化に触れるという経験が望ましい。
小学校高学年では、簡単なアルファベットや発音記号にとどめ、
耳から聞くことにより、単語量を増やしておく方が望ましい。
そして、聞き忘れたときに、メモを取りたいと子どもが望めば、
そのときに、記憶の手がかりとなるスペルを、任意で教え、
単語書き取りテストを強要すべきではない。

メモを取っているうちに、「f」と「ph」は同じフという音だなあと、
法則性を感じてきたら、必要に応じて、発音記号とスペルを対応させていく。


実際に「書ける英語」は中学生からでも遅くはない。
簡単な文法のうちに、自由な発想の作文力をつけるべきである。
そのためには、
中学校3年間で、自発的に単語量を伸ばしていくことが望ましい。
水泳やピアノ、そろばんの級のように、学校ごとに単語量テストで級を作ってもよい。
3年間でここまででよいというルールは、
教師側にあっても、生徒の足かせではないのだ。


早期教育は、よい耳と、感性を育てる。これもまた、無駄ではない。
なにをどうテストし、最低限求めるか、評価やテストしだいであろう。

2011年4月10日日曜日

子ども達は、何に苦しんでいるのか

なぜ子どもはきれるのか

子どもの性格ではなく、ストレス社会、ゆがんだ食生活のせいだと思う。
朝食抜きの子どもの中に、勉強に集中できない、いらいら切れやすい子が多いように思う。

そして、子どもは社会の鏡である。
切れる大人を見て、子どもはこんなストレスの表し方もあるのかと学習する。
ストレスがたまったら、どのように心を正して処理するか、大人がよき手本を示さねばならない。



なぜ、子どもはいじめをするのか

快か不快か、ゲームを通じてコミュニケーションを学ぶ子ども達にとって、
いじめによって得られた快感を、理性によってとめることが困難である。
受動的なテレビのいじめいじくりコント、戦闘殺戮中心のボタンアクションゲームの時間の方が、
人間同士のコミュニケーションの時間より長いため、よき経験がこれらに上書きされていく。

また、探偵ごっこや、鬼ごっこのような、役割を順番に変える遊びの少なさから、
だれかが泥棒役や鬼になれば、そのまま泥棒役や鬼の役のまま、役割が固定されている。
社会のシュミレーション不足である。
昔ながらの年齢混在の群れを擬似的につくるか、英会話を学ぶように、うつくしい日本語会話を丸暗記するような授業が幼稚園から小学校低学年のうちに望まれる。

また、子ども達は、保育園、幼稚園、地域や家庭で、大人同士の醜いいじめを見続けている。
どのようにやれば、効果的に嫌がらせが出来るか、子ども達は小学校に上がる前に、
高度な社交性、テクニックを得てしまっている。
まず、大人が変わらねばならない。
それには、よき大人を作る、中高生の教育にかかっている。



なぜ、茶髪や服装の規定に反発するのか

幼少時から、大人顔負けのデザインの服と、髪型をしてきている子ども達にとって、
中高生の制服は、退行である。
なぜ、校則を守らねばならないかというのは、彼らの哲学との戦いである。

校則は地域の歴史を背負って生まれてきたもので、
一度決めると、なかなか、こまめに変える訳に行かないものである。
それ故、校則は、昨日今日の流行にしょっちゅう左右されないこと、
自分の主義主張と考えが違うからといって、
ルールを破るのはよくないことを、子ども達にきちんと伝えることが必要だ。

理想の生徒は、自ら、中高生に適した服装を選び取り、
学校では、清潔で不快感を伴わない、学習や運動に適した服装、
自宅では、身体を締め付けない、くだけた自由な服装、
アルバイトでは、サークルではと、自ら着替えていく生徒である。
しかし、最近の不況で、着替えたくても、着の身着のままの子どももいる。
制服とは本来、着替えのアイテムが少ない貧しい子どもでも、
堂々と通学できるために生まれた、機能的で、冠婚葬祭にも使える公的な服装である。

お金があり、もっと個性的で高価な髪型や服を楽しみたい生徒には、
学校は高卒の資格をとり、勉強をするのが第一の目的であり、
生徒は今だけ働くのを免除されているに過ぎない。
その生徒が、他の生徒のねたみやひがみにつながる、
服装や髪型にお金をかけすぎてはいけない。
社会人になってから、自分のお金でするように諭すべきである。

制服について、多くの保護者や生徒の意見を反映すべきであるが、
誰の何の目的化も、考えねばならない。
決して、教師が生徒を管理、拘束するためのものではないのだ。

日本の教育について

理想の教育

大工が木の性質を1本1本見極めて家を建てるように、ひとつとして同じものはない「生徒」という素材を、いかに導いていくかという作業は、職人技であると思う。

ホ乳類の場合、犬は犬の親から、猫は猫の親からその種にふさわしい振る舞いを学ぶ。
人類も同じく、有史以来、民族の文化を伝えるのが教育であり、小さい頃に受けた教育は、死ぬまでその人の人生にかかわる。
生きることは学ぶことである。

さらに、国際社会に通用する常識、マナーを持つ人材の育成が、今の教育にもとめられている。


理想の教師像

わざわざ、私に習ったシーンを思い出さなくてもよい。
むしろ、授業で習ったということを忘れるほど、さりげなく身に付いていること、
その人の知識となり、生き方に多少影響を与えている。そんな教え方の出来る教師が、
私の理想の教師像である。


後輩の教諭に、きちんと仕事のノウハウを伝え、
先輩や管理職の仕事を支える教師。
また、特別支援教育の免許を生かし、障害を持つ子どもの学業を軽くし、
保護者や担任の意見を聞きながら、その生徒の希望を第一にかなえてやる教師。
障害を持つ子どもが、近所の人々に溶け込みながら就職できるよう、手を出しすぎず、口を出し過ぎず、見守っていく教師像。


子供の目がいきいきと輝いている授業、
子どもがやる気を起こす授業を行う教師


生徒と教師と心のつながりを考えると、他の人では急に代役の出来ないという意味で専門職であり、深い知識と教えるテクニックが必要である。


「確かな学力」高い専門性で生徒を魅了し、
「豊かな人間性」で、生徒や保護者、地域の方々のよき手本となり、
「健康・体力」教育に注ぐ情熱を、発揮できる体力を維持できる、自らを律することの出来る教師。

頭の良さでは、機転のきく人。
心の広さでは、自分のことを一番後回しにして他の人のためのことを考える人。
生徒の心や体の健康を大切にする人。
口先ばかりではなく、身をもって、自ら示す人。

常に自ら学び続ける教師。


理想の生徒像

今の子ども達は、
社交性は高いが生活体験が少ない子どもが多い。

予習復習を自主的に行う生徒。
家では家族と会話し、どんどん手伝いをする生徒が理想である。

自分、他人、他の生き物の命を大切にする子ども。

インターネットについて思う

 インターネットの長所は、テレビや新聞ではまだ発表されていない最新情報を、必要なときに、知ることが出来る。
また、一般向けでない専門的な情報や商品を、どこにいても手に入れることが出来る。

しかし、過去の情報の蓄積、検索が困難である。特に、少し前のニュースや訂正前の情報を得にくい欠点がある。 
それゆえ、一つの内容についての情報量、内容の正確さは新聞や書籍に劣り、
また、情報がありすぎて、マイナーな情報ほど探すのに時間がかかりすぎる。


パソコンの長所は、印刷屋や図書館に行かなくてもよくなったことである。
しかし、度重なるバージョンアップがうっとおしい。

パソコンの機種も、ソフトも、容量が増加したまま、
使用機能が少なく、ソフトも数や内容がシンプルで、
単純なワープロソフト、単純な表計算ソフトに特化した、子ども年寄りノートパソコンが必要だ。
それは、一般社会人にとっても、電卓のように、手軽な文具となる。


携帯電話も同じだ。
水に強く壊れにくい、ボタンが見やすく大判の、子どもや肉体労働者仕様の電話特化型、
(小さな手、でかい指、軍手向き、メカニックなデザインだが安価)
こまかな外装やオプションに凝った、デコ、こてこて、金持ち向け型、
大容量とスピード表示重視の、スマートデザイン、ビジネス型、

もう、年寄り向けと一般という2極分類は古いのではないか。
子どももお年よりも、センスのない幼稚なデザインはきらいだ。

今の日本について思う。

学歴社会について

要領よく、多くの知識を得られるかどうか、図るには優れた尺度だ。

欠点は、それが会社にとって本当に有益な人間かどうか、
真面目で正直な人間かどうか、測れる尺度ではないこと。


日本国について

日本国の経済が失速し、発言力がますます低くなり、国際社会でういている。
国の借金が多く、食物やエネルギーの輸入が多い。
また、日本人は、自己中心的で、大人気ない態度の人が増えているようにも思う。

自分さえよければではなく、子どもやお年寄り、障害者や外国人、
誰もが暮らしやすい世の中になって欲しい。

今を生きる子ども達に伝えたいこと

何のために生き、何のために勉強するか、考えさせたい。

海外では、多くの子ども達が、みんな働きながら勉強を頑張っているよと伝えたい。
タイやマレーシアでは、母親の屋台を手伝いながら、小学生が宿題を解いている。
イランでは、高校生が店番をしながら、レジの横で、アラビア数字ではなく、ペルシャ数字を使って、日本と同じ高校数学の計算問題を解いている。

また、生命の大切さを伝えたい。
例えば、400個のうちのたった1個の卵と3億個のうちのたった一個の精子がめぐり合って生じる偶然から生まれてきたのだよ。
70億人の人間からたった2人が出会って、生命が生じるのだと、いじめに係わったり、自暴自棄になっている子ども達に伝えたい。

自分を大切にし、他人を思いやる子どもであって欲しい。
社会に出てからも持ち続けて欲しいと思います。